乙女よ、撃鉄を上げよ
ジルフィアたっての希望で、祝勝会はあの酒場で開かれることになった。小さな酒場に党幹部が集い、あの頃を懐かしむように華やかに歌うラジオからは、彼女の演説が繰り返し、繰り替えし聞こえてきた。
ジルフィアは、いつものようにビールを一杯だけ飲んだ。彼女の下にはその貢献をたたえる狼たちが集ったが、私生活での彼女は、相変わらず寡黙で、辛抱強い女だった。ファニトレは彼女にずっと付き従い、狼たちの相手をした。酒場での彼女は、ジルフィアが最初に感じた通りの、魅力に満ち満ちた女性だった。くるくると変わる彼女の表情を、また、年月を重ねてより艶やかに光るヒスイを、ジルフィアは満足そうに眺めた。
やがて、いつものように青年が壇上に上がり、党員たちに、そしてジルフィアに、労いと感謝の言葉を述べた。ジルフィアは壇上に誘われたが、酔っているから、と言って、それを断った。
夜半に差し掛かって、宴はお開きとなった。勝利の美酒に浮かれた党員たちが、一人また一人と帰路につき、馴染みのジルフィアと、ファニトレだけが酒場に残った。ジルフィアは、ようやく一杯目のジョッキを空けると、久しぶりに二杯目を頼んだ。
そうして、二人は取り留めのない話をした。ジルフィアはいつものように辛抱強く、近所の犬が産んだ赤ん坊の話を、何度も頷きながら聞いた。
三杯目のビールを空けて、ジルフィアは自分がいつになく高揚していることに気が付いた。偶然にも、ラジオからはあの頃何度となく聞いた、あの歌が流れていた。
<乙女よ撃鉄を上げよ、今こそ祖国の空は晴れ……>
いつ振りか、左右の耳からは、同じ歌が流れてきた。初めて、この歌を好ましく思った。くるくると回るファニトレの表情をうっとりと眺めながら、ジルフィアはこの高揚を、勝利の美酒のせいにした。
ファニトレ、と、ジルフィアは珍しく彼女の話を遮った。大きなヒスイがまっすぐに彼女を見つめると、彼女の胸はますます高鳴った。きょとんと間の抜けた顔をした彼女の手を取ると、ファニトレは何の抵抗もなく、その手を差し出す。女神の肌に触れることを許されたジルフィアは、ゆっくりと、その絹のような、また、大理石のような滑らかな肌を楽しんだ。そうして、ゆっくりとその手を引き、彼女を引き寄せ。
ジルフィアは、ファニトレの唇を奪った。
疑いようもなく、彼女の人生で最も幸福な時間だった。柔らかな温かみを感じながら、ファニトレの小さな体躯をかき抱く。
ややあって、ようやく状況を飲み込んだファニトレが、身をよじるようにして体を離した。ジルフィアは、逃がさぬようにその手を引くが、ファニトレは、とっさにその手を振り払った。とっさの事に、ファニトレは急いで弁明するが、混乱するその口からは、いつにもましてまとまりのない言葉だけが溢れた。
混乱する彼女の姿を見て、先ほどまでの高揚感が、冷や水を浴びせられたように引いていくのを感じた。離れる彼女を引き留めようとしても、壇上であれほど雄弁な言葉は、一つたりとも彼女の口を飛び出しはしなかった。お互いの混乱が、二人の間に流れる空気を、より冷たくしてしまった。
やがて、目を伏せたファニトレは、外套と鞄をつかみ、店を飛び出して。
ジルフィアはただ、残されたジョッキを虚ろな目で見つめてた。
さて、それから。
ジルフィアは、ますます政治活動にのめり込んだ。同時に、あれだけファニトレに充てられていた私生活は、すっかりと空虚なものになってしまった。
ファニトレは、何度も彼女の下を訪れたが、ジルフィアは突き放すように、彼女の弁明を聞こうとはしなかった。彼女の訪問もやがて間が開くようになり、すっかりと途絶えてしまう頃、彼女の部屋には、最低限の家具だけが残されていた。あれだけ買い漁った本も、読み終わったものから棄ててしまった。
壇上に立つ彼女は、ますます迫力を増し、また苛烈になっていった。いまや、彼らは国政の一翼を担う存在である。彼女が壇上に上がる度、言葉を発する度に、人々はあの頃の熱狂を取り戻していった。狼たちは、忠実に彼女を支え、また、彼女らの敵を狩った。
だんだんと、党員たちの忠誠は、党全体ではなく彼女個人に向けられるようになった。彼女が、そうなるように仕向けた。彼女は、逃げるように権力闘争に明け暮れた。その果てに、あの青年までも党から追放した。
そのすぐ後に、ファニトレもまた、自ら党を去った。
党首となった彼女は、ますます過激に、より厳しい規律を敷くようになった。背いたものは、仲間であれ全て狩った。
結果として、彼女らの党は、ますます躍進した。彼女はよどみなく、正確で、冷徹で、何よりも有能な女王であることを証明し続けた。狼の群れは、野放図に、無軌道に増えた。
党首は、狩りの組織の中に、女性だけの部隊を作った。ヒスイ色の眼をした女性だけを、選りすぐった部隊を。彼女らは、寡黙で、辛抱強く、忠実であることを求められた。必然、彼女の下には、彼女に対して崇拝ともいえる感情を抱くものだけが残った。そのようなものだけを、彼女は近くに置くようになった。また、
やがて、彼女は名実ともに「女王」となった。熱狂の中で、彼女の名が叫ばれた。
熱狂はまた、世界を巻き込む渦となった。人々は、かつてと同じ言葉を口にした。「歴史上の誰も、経験したことのない戦争」と。
――そのあとは、きっともう知っているね。
もしくは、これまでの話も知っていたかもしれない。これは、彼女にかかわった人々の、その言葉を集め、縒り合わせ、編んだものだから。
ならば、終わりの話をしよう。ただ一人だけが知る、本当の終わりの話を。
すべてを失った女王は、ただ一人、誰にも告げず、あの酒場を訪れた。拳銃だけを身に帯びて。通りにも、酒場にも、人の姿は見当たらなかった。遠くからは、大地をひっくり返すような、唸るような轟音が、だんだんと迫ってくる。
彼女は、馴染みのカウンターに腰掛けると、そっとラジオのスイッチを押した。すっかり古ぼけたラジオは、あの頃のように、あの歌を歌った。彼女が、そうするように命じたから。
あの時と同じように、右と左と、同じ歌が流れたことは、彼女を少しでも慰めただろうか。もしくは、打ちのめしてしまったかもしれない。
<……乙女よ撃鉄を上げよ、今こそ祖国の空は晴れ……>
乙女は、撃鉄を上げた。
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