レディ・ウルフ

加湿器

鉄の女

 さて、お話をはじめよう。とある女王の話を。


 敗戦から、六年。その女性は、とある都市部の銀行に勤めていた。名は、仮にジルフィアとしておく。

 ジルフィアは、傷痍軍人である。六年が経った今でも、歩く姿には少しのぎこちなさが残り、左の耳はほとんど聞こえていない。しかしながら、職人の拵えた時計のように、彼女の仕事は正確で、少しのもなく、そして冷徹であった。銀行でも、かつて居た軍でも、彼女は時に「鉄の女」と称えられた。


 そう、ジルフィアは銃をとった。彼女が、20になった頃。

 その少し前、彼女は、幼いころから親しんだ田舎の屋敷を出て、大学に入るためにこの都市まちへ来た。彼女は彫刻家になりたかった。故郷くにの広場に飾られていた美しい女神の彫像を、彼女はこよなく愛していた。なれない石畳の感触と、少しの鼻の低さが彼女を悩ませたが、晴れやかな学生生活であった。


 彼女の青春が終わりを告げたのは、一年と少しが経った頃。突然に、彼女の奨学金は打ち切られた。

 戦争が始まったのだ。


 ほんの一握りの生徒を除いて、ほとんどの学生が同じ目にあった。彼女が酒場で働き始めた頃には、彼女の憧れた華やかな女学生たちは皆、都市まちから消えてしまった。


 人々は熱狂した。歴史上の誰も経験したことのない、大きな戦争であった。ジルフィアが働く酒場でも、真新しいラジオが、志願兵を募る歌をうたい上げた。


 ――彼女の左耳は今でも、ふとあの頃の歌を、あの頃の歌だけを聞き取ってみせる。


<乙女よ撃鉄を上げよ、今こそ祖国の空は晴れ……>


 そのうちに、酒場での稼ぎだけでは、学校を続けることが難しくなった。田舎の、老いた母からは、何度も故郷くにへ帰るよう催促の手紙が届いた。

 しかしながら、彼女は、諦められなかった。


 ラジオは今日も歌う。なんの悪戯か、暗い目で皿を洗うジルフィアの耳に、ふと、軍人のしゃがれた声が届いた。


「……祖国は君たちの助力を求める。志願兵には恩給を……」


 明け方、ジルフィアは仕事を切り上げると、通りストリートで拾った募兵の張り紙を、食い入るように眺めた。

 恩給は、彼女の夢をかなえるのに、十分な額に見えた。


 ジルフィアは銃をとった。彼女が、20になった頃。


 ――よどみなく、正確に、冷徹に。鉄の女が計算機をはじく。手の甲には、大きく裂けた傷跡が残っていた。かつて、営倉で鞭うたれた傷だ。彼女が、自分の体にあるうちで、唯一好きになれない傷だ。


 彼女が都市まちへ、足を引きずって帰ってきた時。人々を駆り立てた熱は、すっかりと姿を隠していた。通りには失業者が溢れ、子供たちはみな物売りをしていた。


 恩給は、支払われなかった。それどころか、傷痍を癒すのに十分な金すら、兵士たちの懐にはなかったのだ。

 彼女の上司も、部隊の仲間も、しつこく彼女を誘ったパイロットも、終戦から一年して、みな死んだ。


 彼女の幸運は、田舎の父母が健在であったこと、ただそれのみだった。両親は少ない財産から、どうにか彼女の医療費を支払った。頑として家に帰らない彼女に困っても、ほうぼうに頭を下げて、銀行員の仕事も見繕った。

 体と心に負った傷が、彼女を意固地にしていた。


 それから、六年。彼女は、痛む足を引きずって、銀行に勤めた。鬼と恐れられた鉄の女は、冷たい機械のごとく、慈悲無く、温情なく、不正を許さぬ女王となった。


 とある冬の夜、彼女はあの酒場に、今度は客として訪れた。少し古びたラジオは、今は静かに眠っていた。

 ジルフィアは、決まってビールを一杯だけ飲んだ。程よく体が温まれば、一時間といないうちに家路につくのが、彼女の常であった。ところがその夜は、手にしたジョッキの半分と飲み干さないうちに、彼女に声をかける者がいた。彼女の名は、仮にファニトレとしよう。


 ファニトレは小柄で、大きなヒスイ色の眼と、ころころと変わる表情が魅力的な女性だった。一声かけて、彼女はジルフィアの隣に腰掛けると、同じくビールを一杯注文した。


 ――ジルフィアは、彼女の瞳を見て、その深い緑に、吸い込まれてしまうのではないかと感じた。


 ファニトレは、雄弁だが、筋の通った話し方をするほうではなかった。ジルフィアが辛抱強く聞き出したところによれば、彼女はとある政党に属していて、こうして酒場を回って、勧誘をしているのだということだった。これだけのことを聞き出すために、ジルフィアは彼女の家族の話や、近所の犬の話、党員たちの浮気な話について、合わせて十五、六回は頷いてやらねばならなかった。


 また、ファニトレはジルフィアがほんの少し相槌を打ってやると、その度にあの大きなヒスイをきらめかせて喜んだ。その様があまりに愛くるしいものだから、普段は寡黙なジルフィアも、酒も手伝っていつになく饒舌にふるまった。気づけば、ジョッキの数は普段とは比べ物にならないほどになっていた。

 やがて夜半に差し掛かり、ジルフィアはどうしてもとせがむファニトレを振り切って、家路につかなければならなかった。引き留めることがかなわないとわかると、彼女はジルフィアに党集会の案内を握らせて、きっと、きっと来てくださいましと念を押した。


 そうして、「決して避けえないものFatale」と、ジルフィアは出会った。

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