『rose』の秘密

夕辺歩

第1話 ペーパーウエイトと殺人事件

「所長」

 綾香あやかがデスクから呼びかける。

 ブラインドの隙間からは午後の日差し。

 所長が座る黒革の椅子は墓石のように動かない。

 私は綾香を見上げた。無表情な娘だ。ペンケース脇に置かれた私――、半年前に彼女に買われた黒猫のペーパーウエイトである私よりも無表情。スーツを着たトルソーに見える。

 そのトルソーが再び呼びかけようとしたとき、墓石が揺れた。伸びをする腕の下から大きな欠伸が漏れた。

「孫なんぞ生まれる夢を見た」

「メールが届きました。差出人は春菜はるな・テイラーさんです」

「読んでくれ」

「はい。『久し振り。春菜です。ロンドンは今日もどんよりです。ところで、知り合いがある事件に巻き込まれちゃったの。パパの、名探偵の頭脳を貸してちょうだい』」

 背凭れの陰から伸びた手がデスクの上の煙草とライターを掴んで引っ込んだ。

 長瀬ながせ探偵事務所は零細事務所だ。この半年、私は所長の多忙な様子を見たことがないし、綾香を含む三人の所員たちが無駄話以外のことをしているところも見たことがない。

 だからこそメールは私の興味をそそった。名探偵の頭脳だと?

「『私がこっちの劇団で準団員をしてることは知ってるでしょう? 今朝、一部の女性団員が寝泊りする寮で殺人事件が起きたの。疑われてるのは私と仲の良い男性団員。彼が私のアパートに転がり込んで来たせいで私まで聴取を受けるハメになっちゃって……。お願いパパ。去年のカフェレストラン貸切殺人事件みたいに現場まで来て欲しいとは言わないわ。資料を添付するから彼にかけられた容疑を晴らして。パパの推理力だけが頼りよ』」

 背凭れの向こうから紫煙が立ち昇り始めた。

 事務所の経営そっちのけでシエスタ三昧の自堕落男に、事件解決に寄与できるほどの推理力など備わっているのだろうか。私は疑念を禁じ得なかった。場所がロンドンなら、掃いて捨てるほどいるだろうホームズばりの名探偵たちをこそ頼るべきだと思うのだが。

「劇団の準団員ときたか」

 笑い含みの声に綾香が首を傾げる。

「娘さんは、たしかフリーのライターさんでは」

「さあ、どうだったか。資料を読み上げてくれ」

 劇団員女子寮殺人事件の詳細は以下の通りだった。



 ローズマリーは201号室のドアを7時にノックした。

 憧れの存在から直々に任された、それは新人の彼女にとって名誉な役目だった。

 毎朝、1階の自室を出たローズマリーは宿直室前を横切り、電話機の据えられたコーナーを折れて階段を昇る。2階の一番手前が201号室だ。

 ノックは3回。大抵それで返事がある。床が軋み、鍵が開き、部屋の主が顔を覗かせる。休日以外は毎日そうだった。

 何度ノックをしても返事が無いのは初めてだった。

 公演を控えて練習にも熱が入る今の時期、主役が遅刻したとあっては大事だ。

 朝の支度に移動時間を含めれば、実は7時起床でもギリギリのスケジュール。

 ローズマリーは慌てた。ノックを繰り返し、ドアノブに手をかけた。

 鍵は開いていた。

 ドアを引いて中を覗いた。

 赤黒く汚れたフローリング。そこに広がったブロンドの髪。

 暗所恐怖症のため寝る時も消さないという、白いベッドサイドランプがネグリジェの背中を照らしていた。

 ローズマリーはノブを掴んだまま固まった。

 劇団の花形、エマが血溜りの中に倒れていた。

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