ザザ、と壁を隔てた向こう側から、なにかが滑り落ちたような音が響く。

 恐らく高いところに留まっていた雪が重さに耐え兼ね零れ落ちたのだろう。ゆぅらり、その音に反応するように、床に置かれた蝋の灯が陽炎に変じたかのように、一瞬その輪郭を揺らめかせた。

 阿久里あぐりは思わず落とした睫毛の先を再び目の前に座する美貌の侍女――いとへと向ける。


「同い年、と申されますと……、その……」

「はい。ご想像の通りです。さかきさま」


 いとがいうには、綾姫あやひめと彼女の生母である常盤ときわの方が高梨海山たかなしかいざんに嫁いだのはいまから二十年ほど前の話らしい。どうやら阿久里の母が京より父の許へ嫁いだころと同じくして、彼女たちの母もまた大名家正室として実家を出た。

 その後、阿久里の母は数年ほど身籠らなかったのだが、常盤の方はどうやら多産の家系のようですぐに妊娠。けれど――。


「畜生腹、だったのです」


 冬と呼ぶにはまだ寒さが足りない頃の――月がやけに夜空にくっきりと輝く夜だったそうだ。

 俄かに産気づいた彼女の母がひとりの女児を産み落とした数時間後に、再び陣痛に襲われもうひとりの女児を出産した。双子は犬猫などの畜生同様多胎児ということで、古来より忌み嫌われており、それを産んだ母もまた侮蔑の対象となる。

 特に男女は心中の生まれ変わりともいわれ、胎の中で目合まぐわうなどと中傷されることもあり、場合によっては女児は縊り殺されることも珍しい話ではないらしい。けれど、綾姫といとは、同性ということもあり殺すには忍びないと、海山には内緒にしたまま頃合いを見て里子に出そうという話になった。


「そんな折、乳母に選ばれた人の娘……わたくしたちよりも、一月先に生まれていた赤子が、急死致しました」


 乳幼児の死亡自体は、そう珍しいという話でもない。

 十人生まれた赤子が一年後半分生き残っていれば御の字である。

 しかし、乳母は初めての我が子の死を甚く悲しみ――そして。


「『我が子』を失った事実に耐えられなかった乳母は、綾姫さまの妹が死んだのだと偽り、わたくしを我が子なのだといって育てました。実際に世話をするのは乳母であり、また赤子の顔など日々変わりますから……誰も、その取替には気づかなかったようです」


 実際問題、畜生腹の妹姫など誰も口には出さないものの、厄介払いをしたい存在だったに違いない。死んだのならばこれ幸いと、大して気にも留めず、そのまま月日は流れていった。

 ひとつ、誤算があったとするのならば、綾姫といとは双子であり、その顔貌かおかたちが似ている、などという言葉では済まされないほど、瓜二つだったことである。


「やがて長じたわたくしたちを見て、周りの侍女たちばかりでなく常盤の方さまもわたくしが綾姫さまと共に生まれた赤子の育った姿なのだと、気づきました。けれど、御方様はわたくしを決してご自身が産んだ子だとはお認めになられませんでした」


 認めなかった、ということは、ただ自身の子ではないという意味ではないだろう。恐らく、彼女の存在そのものをなかったことのように扱ったに違いない。

 自身の産んだ子など、綾姫の他にはいなかった。

 だからこそ、瓜二つの娘など存在してはいないのだと。

 そして、それは奥殿全てに感染していく。

 奥殿の主である常盤の方がそういう扱いをする娘なのだから、ただでさえ厄介払いをしたがっていた忌み子である。侍女たちもまた同じように彼女を軽んじていたことは想像に難くない。

 阿久里がそれを問えば、是という返事が小さく零れ落ちた。


「それでも人の口の戸はてられぬもの。口さがない侍女たちは、影では色々と噂話をしていたようですが、御方様の前では決してそれを出すことはありませんでした」

「海山どのは……お父上の、海山どのは、如何だったのですか? それほどまでに似た女童めのわらわがご自身の姫の傍にいたのなら、お気づきになられたのでは?」


 阿久里が先ほど手に取り捲っていた「宇佐国史略記うさのくにしりゃくき」をぱたり、と閉じながら、次に視線のみを彼女へと向けた。

 海山は数多くの側室、妾を抱える身だが、正室との仲はそれなりに睦まじく、綾姫たちの後にも幾人か子供が生まれているはずだ。綾姫は父親に対し色々思うところがあるような複雑な素振りを見せていたが、それでも彼が子供たちの許へ全くおとなうことがなかったわけではないだろうし、――となれば、彼がそれを気づかないわけはない。


「当然、殿はわたくしにもお気づきになっておられました。けれど、御方様がその存在をお認めになられず、また殿に正式に出生を報告したわけでもない赤子など、殿においては存在しないのと同意なのです」

「……それ、は……」


 事情は異なるが、阿久里が親から受けていたものと重なる幼少期だ。

 違うことといえば、阿久里はそれでも大名家の姫として存在がなかったことにはされず、六の姫を自他ともに認められていた。そして、幸いにも身近に愛情深い乳母と乳母子めのとごがいてくれた。


  ――そなたが稲荷どのがごとき姿で、生まれなんだら良かったのだ!


 かつて、阿久里が父親からよくいわれた言葉だが、それでも彼は一度として阿久里自身が生まれなければよかったと口にすることはなかった。生まれたことは、否定されたことはなかったのだ。


(まぁ、それにしたってお父さまの言葉も大概ひどいけれど……)


 けれど、いとは違う。

 生まれたことそのものを、否定されたのだ。

 ――乳母の子・・・・であるにも関わらず。


「榊の御屋形さまのように立ち向かうこともせず、わたくしは『自分』という存在を放棄して、人形のようになにも考えずなにも心に留めず暮らしておりました。姫さまのお世話のみに心を寄せていれば、それだけで時間は過ぎて行きましたから……」

「まぁ、私が立ち向かっていたのかと問われるとどうなのでしょうか……。私はただ不仲だった父と、顔を合わせたらいいたい事を我慢せずにそのままいっていたに過ぎませんし、放置されているからこそしたいことを勝手にして、それなりに自由に暮らしていただけなので……」

「……いいえ。やはり、御屋形さまはお強くていらっしゃいます」

「ありがたいお言葉ですが……、それは、強い、のでしょうか……」


 顔を合わせる度に父親からは嫌味や小言をいわれたものだが、それでも生来いわれっ放しのまま、よよと泣くような殊勝な性格はしておらず、なにより自分は直鷹なおたかをして「負けず嫌いだし、イヤミのひとつを浴びせるまで絶対引かない」といわしめる図々しさが打掛を纏い生きているような人間である。

 精神安定が自然と自分で調整出来ていたことは確かだが、それが強い証明かといわれると微妙なところだ。


(私の身分が榊のむすめであったからこそ、それが出来ていたという面はあるのよね……きっと)


 彼女のように、身分も周りの人間も自分という存在をなにひとつ保証してくれないのだとしたら、そんな強気な態度を取れたか断言はできない。――まぁ、恐らく自分の気質的にはあまり気にしていなかったような気もしなくはないが。


「少なくとも、侍女として姫さまをお止めすることもせず、ただ流されるだけのわたくしよりもずっとお強いかと……」

「あの、綾姫さまといえば……、いまふと思ったのですけれど……」

「はい」

「いとどのは、綾姫さまの狂言の身代わりとなった後は、どうなさるおつもりだったのですか?」


 狂言誘拐がうまくいったにせよ、水尾みずおへ嫁ぐ高梨のむすめが消えたままめでたしめでたし、とはならないだろう。綾姫の駆け落ち先がどこの家なのかは知らないが、水尾、高梨両家から必ず「高梨海山の姫」の捜索が行われるはずだ。


(もしかして、綾姫の身代わりになるつもりで……?)


 協力者の多田ただという者がどういうつもりでこの狂言に付き合ったのかは知らないが、要は身代わりが差し出されれば納得できるという筋の話だろうか。


「多田どのは……恐らく、姫さまを娶ろうとなさっておいでだったかと思います。元々、水尾直家みずおなおいえさまとご婚約される前、多田どのと姫さまは許嫁の間柄でしたから」

「綾姫さまの想い人は、その……多田どのと仰る元許嫁の方なのですか?」

「……いいえ」

「では、綾姫さまは狂言のおつもりで仕組んだことを、多田どのは真実にするおつもりだった、と?」

「そう、ですね」

「そしていとどのは……、その、身代わりに……なるおつもりだったのですか?」


 いとからの返事はなく、ただ彼女の長い睫毛が白磁の頬へと影を深く落とした。形の良い唇が、きゅ、と固く結ばれている。

 きっと綾姫本人は、多田とやらの思惑に気づくことなく、ただ自身の想い人と添いたい一心で今回の狂言を計画したのだろう。そして、その彼女の意図に気づいているのかどうかは定かではないが、水尾へと綾姫が嫁すことがそもそも反対だった多田が、その狂言に加担した。

 しかしその計画を実行してしまえば、綾姫の身柄は父親の与り知らぬところ――つまり、多田の許へ収まることとなり、永遠に彼女の願いが叶うことはない。


(綾姫さまはともかくとして……此度の縁組の意味くらい、多田どのとやらも察しているはず。けれどそれを阻むということは、海山どのへの叛心はんしんがある、と捉えて良さそうね)


 確か多田といえば、高梨海山に追放された遠賀国とおがのくにの前太守の一族の名だったはずだ。

 そして此度の水尾・高梨両家の縁組は、そもそも海山の地位が揺らぎ始めていることに起因して一気に進められた話である。


(そうなると、もう綾姫さまの恋物語という次元の話ではなくなってくるのよね)


 阿久里はす、と視線をいとから傍らの山になっている冊子へと流すと、次の外題げだいへとちらり、視線を這わした。綺麗に貼られた題箋だいせんに書かれた文字は「鳴海国諸旧記なるみのくにしょきゅうき」――鳴海国における名家、武家、商家や過去の事件、合戦などの記録を収めた史書である。

 それを手を取り、その下にある冊子を見れば、「榊郷仲分限帳さかきさとなかぶんげんちょう」との外題。さらにその下には「道郷記どうごうき」と外題がある冊子が顔を出した。「榊郷仲分限帳」は阿久里の四代前の当主であり、彼の家臣、家族などへの俸禄などが記載された帳簿。「道郷記」は榊道郷さかきみちさとという祖父の日記である。


(もう、間違いない)


 先ほど「宇佐国史略記」を手にした時から薄々勘付いてはいたが、これはもうほぼ確実だと思っていいだろう。


(となると、見取り図があると助かるのだけれど……)


 阿久里の視線が再び書棚へと流れそうになったその瞬間、視界の端でなにかがチカッ、と光を発したような気がして、阿久里は僅かに眉を寄せる。確かめるべく、す、と睫毛の先を向ければ、どうやら夜の帳が開けようとしているのか小窓に区切られた空の色が先ほどに比べ白み始めている。

 どうやら夜が、終わりを告げる刻限らしい。

 季節を考えると、朝五つ――の刻限(午前六時から八時)くらいか。

 この狂言に阿久里が加わったことで計画がどう転がっていくのかが予測できない以上、長居は無用だろう。


「そろそろ本気で逃げ出す算段つけなければなりませんね」


 阿久里が打掛の襟部を持ち上げながら、見取り図を探そうと腰を浮かせたその瞬間、ふ、と掻き消えるように床に置いていた蝋の灯が命を終わらせた。く一瞬で暗くなった室内に、ゆらりと灯の残滓が煙となってゆらりと天井へと上っている。


「あ……。遅、かった……です、ね……」

「え? 遅……?」

「はい。見取り図探して読み解くところまでは進めたかったんですけれど……」

「え、見取り……? って、あ、あの……、御屋形さま。ここがどこかお分かりに、なられたのですか?」

「はい。ここは、栄福寺えいふくじ――お泊り頂いていた、榊家の菩提寺です」


 灯に慣れた眼では、いまだ室内の暗さに順応できず、闇の中にいとの姿を探すことは出来なかったが、阿久里は声のかかった方へと視線を向けて頷いた。


「……そんな……、確かに、外に出たような気配があったのに、何故……。いえ、その後わたくしも気を失ってしまいましたので、確かではないんのですが……」

「うーん。一周、外周だけ回ってきたとかではないでしょうか。攫ったていにするために」

「でも、あの……、何故……それが、お分かりに?」

「ここにある書物……ざっと外題を確認した程度ですが、『京道中記』『宇佐国史略記』『鳴海国諸旧記』『榊郷仲分限帳』『道郷記』――いずれも、榊家に関わりのあるものばかりです」


 ここが鳴海国であることはもう疑いようがなく、さらに宇佐国うさのくにはかつての榊家の治めていた国名であり、そのようなものが他家の書庫に置かれているはずもない。決定打となったのはやはり榊一族の者が書いた分限帳と日記なのだが、ここが花咲はなさき城でないとするならば、答えは菩提寺である寺に収められているとしか考えられなかった。


「流石にその多田どのとやらも、花咲城に私たちを運ぶとも思えませんし……まぁうまい方法ですよね。攫ったフリをして、実質その場に留まるというのは」


 みな、攫われたと聞けば外を探す。

 土地勘のない場所ならば、下手に逃げるよりもその場に留まっていた方が捕まる可能性は低いといえる。

 ここが栄福寺であると気づいたときは、そのまま花咲城へと通じる井戸からの地下道で帰ればいいのだと思っていた。けれど流石にこの寺内のどこに井戸があるのかまでは全て把握はしていない。

 だからこそ、見取り図で現在のこの場所含め位置確認をしようと思っていたのだが。


「行き当たりばったり、とりあえずここから出ることを考えてみましょうか」

「で、ですが……恐らく出入り口には鍵が……」

「……そこなんですよね……」


  ――私をどこへ連れていくおつもりか! お放しなされよ……っ!!


 刹那――。

 どうしたものか、と再びふたりの間に沈黙が落とされた直後、壁一枚挟んだ向こう側から聞き覚えのある声が響いた。はっ、と阿久里の身体が緊張から強張り、打掛が衣擦れの音を立てる。


  ――だからとっとと寺を出ろといったのを、聞き入れなかった自分を恨むのだな!

  ――なにをいう! 私は榊さまよりこの寺を代々預かる者! 何故、私が寺を捨て逃げねばならぬのか……!!

  ――ここは多田さまがお預かりすることとなったためだ!!

  ――なにを……愚かな!!

  ――状況が見えてないお前の方が、愚かだろうよ。阿闍梨あじゃりどの!


 壁の向こう側でされているというのにはっきりとこちらにまでその振動が伝わってくるかのような大声でのやり取りの直後、書棚をいくつか越えた先にある壁からガタゴトという音が立った。そして間髪入れず、ガラリ、その場所が真横に開かれ、その周囲が明るく照らされる。

 陽の光か、それとも部屋の外で焚かれた灯か。

 埃っぽい室内へと差し込む灯りに、小さな粒子がキラキラとそれを反射し漂っている。


「まぁどうなるかはしかとは保証は出来んなんだが……流石に坊主をお殺しになられ、寺を焼かれることもあるまいて」


 嘲るような言の葉と、宙を舞う粒子を塗り潰すかのような影が床へと落ちた。同時にドサ、という重い音が部屋を揺らし、バサバサ、と冊子の山が崩れた音と小さな呻き声が闇が訪れた部屋に響く。


「ま……待……っ!」

「事が済むまで、ここでしばらくおとなしくしているのだな!」


 捨て台詞と共に、再び引き戸が乱暴に閉められ、部屋が闇に包まれた。しかし、どうやらこの騒ぎの内に夜が完全に明けたようで、窓の外より差した陽射しで人の顔貌程度は判別できる程度の明るさが保たれるようになっている。

 ごろ、と床の上に大きな影が横たわっていたが、その大きさからは想像がつかないほどの素早さで半身を起こすと、は衣擦れの音を立てながら入口の引き戸へとすり寄っていく。


「待て……っ! 何故なにゆえ、この、よう……な……っ!!」


 日頃からは想像がつかないほどの、獣の声にも似た叫び。

 阿久里は同じく目を合わせてくるいとへと視線を返すと、打掛を掻い取りながら腰を持ち上げる。


「げ、は……っ、かは、ゴホ、……ごほッ!」

「阿闍梨?」


 埃が喉へ入り込んだのか、それ以上言の葉を紡ぐことなく咳込むその人物に、阿久里はそっと声をかけた。

 ビクッ、と紫色の五条袈裟が揺れ、その後僧綱襟そうごうえりに包まれたおもてがゆっくりと少女へと向けられていく。


「お……っ、おや……っ、御屋形……、さま……っ」


 皺の刻まれた瞼の奥にあるその瞳が、阿久里の姿を見留めた瞬間――。

 肉の寄った頬を震わせながら、阿闍梨の唇が泣いた。

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