第四章 竜人ノア

第1話 空中痴話ゲンカは犬も食わない

 はるかな高みに浮かぶ裏天界が崩壊し、地上に落下していく。

 天樹の塔を脱獄した僕が懺悔主党ザンゲストの科学者ブレイディと一緒に潜入した裏世界の天界は残骸ざんがいに成り果て、宙を落下していった。

 足場を失って空中に放り出された僕は成すすべなく、もがくほかなかった。


「あばばばばっ!」


 落下の速度がぐんぐん上がり、僕の顔を猛烈な風圧が容赦ようしゃなく襲う。

 やがて恐怖心で脳が硬直してしまったかのように、僕は体を動かすことすら出来なくなった。

 裏天界に潜入するために鳥になって高い空を上昇し続けた時は恐怖心なんてカケラもなかったのに、今は怖くて仕方ない。

 それもそのはずだ。

 飛べない人の身では空中落下は死に直結する。

 恐怖を感じて当然だった。


 裏天界の崩壊時に一緒にいたミランダは瓦礫がれきに巻き込まれて姿が見えないけれど、彼女は飛ぶことが出来るから大丈夫だろう。

 だけど僕よりも先に落ちていったヴィクトリアとブレイディは僕同様に飛ぶことが出来ない。

 このままじゃあの2人も地面に激突してしまう。

 だからといって今の僕には2人を助けるどころか自分の身を守ることすら出来ない。


 不安にあたふたしながら落下していくばかりの僕の目の前に、やがて分厚い雲が現れた。

 その雲を通り抜ける瞬間に再び僕は奇妙な空気の幕を通り抜けた気がした。

 これは……表の世界から裏の世界に入った時と同じ感覚だ。

 裏の世界から表の世界に戻ったってことだと僕は理解した。

 その証拠に雲を抜けるとはるか下に巨大な樹木が見えてくる。


「て、天樹の塔だ。このままだとマズイぞ」


 僕の周囲にはまだ大量に裏天界の瓦礫がれきが……あれっ?

 あれだけたくさん落下していた瓦礫がれきは雲を抜けた途端に消えてしまっていた。

 まるで雲という網に引っ掛かってしまったかのように。

 だけど僕をそれ以上に驚かせたのは、そこでいきなり何かが背中にぶち当たってきたことだった。


「うげっ!」


 その衝撃で下を向いていた僕の体はクルリと反転し、地面側を背にして仰向あおむけになった。

 僕は背中にぶつかって来たその人物に驚いて目を見開く。


「ノ、ノア……」


 そこにいたのはつい先ほどまで巨大竜となって裏天界で暴れていた竜人ノアだったんだ。

 彼女はすでに元の幼女の姿に戻っていたけれど、目を閉じたまま気を失っていた。

 僕は接触した衝撃で離れていこうとするノアの体に必死に手を伸ばし、その細い腕をつかんだ。

 そして彼女を思い切り自分の方へ引き寄せて抱き止めた。

 見るとノアはどこか苦しげな表情で目を閉じていて、顔中に傷を作っている。


「ノア……」


 僕はそんな彼女の姿を見て、何だかかわいそうになってしまった。

 ノアにはさんざん手こずらされたし困らされた。

 でも僕は彼女を憎む気にはなれなかった。

 だってあんなふうに巨大な竜になって暴れ狂うことは、彼女の本意ではないはずだ。


 自分の意思を奪われて、望んでもいないことをやらされて、そして傷だらけになっている今のノアを見ていると、砂漠都市ジェルスレイムで暗黒双子姉妹に捕まって勝手に自分のコピーを作られてしまった時のアリアナを思い出して胸が痛む。

 

 僕がそんなことを思いながらノアを手放さないようにしっかりと抱えたその時、フッと落下速度が緩やかになり、やがて空中で完全に静止した。

 誰かが僕のえり首をつかんだためだ。

 それが誰だかは言うまでもない。

 

「何そんなガキを大事そうに抱きしめてるのよ。このロリコン」


 辛辣しんらつな言葉を浴びせながら落下する僕をつかんでくれたのは、言うまでもなくミランダだった。

 良かった。

 ミランダも無事だったんだ。


「ひ、ひどい言われようだなぁ」


 そう言って上を見上げた僕は、ミランダの顔を見てハッとした。

 彼女は瓦礫がれきに巻き込まれてしまった際にケガをしたようで、額から血を流していたんだ。


「ミランダ! ケガしてるじゃん!」


 思わず声を上ずらせる僕だけど、ミランダは平然と左手で額の血をぬぐう。

 

「大げさなのよ。こんなのかすり傷だから。それよりアル。そんなガキを助けてやることないわよ。放り捨てちゃいなさい」

「ええっ? で、でもノアは誰かに利用されていただけなんだよ。せめて元の世界に……僕らのいたゲーム世界に帰してあげないと」


 そう言う僕にミランダはあきれ顔で溜息ためいきをついた。

 

「ハァ。相変わらず甘い男ね。そのままそいつが目を覚ましたらまた暴れ出すかもしれないし、性懲しょうこりもなく巨大化するかもしれないのよ? そんな危険な奴を私達の世界に連れて戻ろうっての?」


 確かにミランダの言う通りだ。

 理屈は分かる。

 でももし自分がノアの立場に置かれたらどう思うだろうか。

 自我を奪われて不本意な行動をさせられた挙句あげく、誰にも手を差し伸べられることもなく異世界に1人打ち捨てられたりしたら……そんなのダメだ!

 僕は決然とミランダに言った。


「もし君が……もし君が誰かから理不尽な仕打ちを受けたら、僕はその相手を許すことは出来ない。たとえ僕の力じゃかなわなくても、絶対に相手に立ち向かうよ」

「アル……」

「でも今のノアにはそうして彼女のために拳を振り上げてくれる人がいないんだ」


 僕の話にミランダはくちびるを噛んだ。


「あんたがそのチビのために拳を振り上げようっての?」

「そうじゃない。でもノアには自分の悔しさを自分で晴らすチャンスも与えられていない。そんなのあんまりだろ。僕は彼女にそのチャンスをつかんでほしいんだ」


 表情を堅くして僕の話を聞いていたミランダはフッと肩の力を抜いた。


「もし……私がそのチビの立場だったら、どんなことをしても犯人を探し出してケジメを取ってやるわ。そのチャンスを……あんたはそのノアに与えたいってわけね」


 僕は静かにうなづいた。

 それを見たミランダはチッと舌打ちをしてから言った。


「……まったく。私の家来はどうしてこう厄介事やっかいごとを抱えたがるのかしらね」


 そう言うとミランダは急に僕の両脇から腕を回して、両手で僕を抱え込むように背後からその身をピッタリと寄せてきたんだ。

 ミランダの体の柔らかさが背中越しに伝わってくる。

 突然のことに僕は身を固くして、上ずった声を漏らした。


「ミ、ミランダ? ど、どうしたの?」

「黙りなさい。片手で持ってると疲れるからよ。放り出されたくなければ、おとなしくしていること」


 戸惑う僕にミランダは静かにそう言って、僕を背後から抱き締める手に力を込めた。

 彼女の柔らかな胸の感触とほのかな甘い香りが僕をますます動揺させる。

 や、やばい……ドキドキしてきたぞ。

 そして緊張で僕の体が震えているのがミランダに伝わってしまう。

 びっくりして抱えているノアを落とさないようにしないと。

 僕は必死に平静を保とうとした。


 で、でもミランダ、急にどうしたんだろう。

 もしかして僕のこと心配してくれていたのかな。

 そう思うと何だか嬉しくて、ドキドキしていた胸が温かくなった。

 そんな僕に彼女は言う。

 

「あんた……女のニオイがするわ。これはあのヴィクトリアとかいうデカ女のニオイね」

「へっ?」


 な、何ですと?

 ぬくもりになごんでいた僕の心臓が一瞬にして凍りついた。


「へぇ。こんなにニオイがつくほどあの女とひっついていたってわけ?」

「ち、違う違う。いや、違わないけど……ち、違うから。そういうんじゃないから」

「私がいない間、他の女とお楽しみだったってわけか。いいご身分ね」

「ご、誤解だよ。ミランダ。話を聞いてよ」


 そうだ。

 教会での戦いでヴィクトリアはすぐ近くで僕を守ってくれた。

 その時に何度も彼女と密着することがあったから、彼女のニオイが移ったんだろう。

 その事情を説明しようとした僕だけど、フワッと体が浮いたかと思うと急激に落下し始めた。


「とりあえず死ね」

「ひええええええっ!」


 ミランダが僕を放り投げたんだ!

 うおわぁぁぁぁぁっ!

 また落ちるぅぅぅぅっ!


 再び空中落下の憂き目にあった僕のえり首を、急降下してきたミランダが再びつかんだ。

 ガクンッと急停止して命拾いした僕は涙目でミランダを見上げる。


「ハァハァハァ……ひ、ひどいよミランダ」

「反省しなさい。これは罰よ。他所よそで他の女のニオイをつけてきた罰」

「こ、これは仕方なかったんだ。不可抗力なんだ。決して僕がやましい気持ちで彼女に触れたわけじゃなくて……」


 懸命に言い訳をする僕にミランダはほほふくらませた。


「分かってるわよ! あんたにそんな度胸ないもんね。でもムカつくからもう一回死ね」

「ちょ、ちょ待っ……」


 三度目の空中落下に突き落とされそうになった時、そんな僕を救う天の声が聞こえてきた。

 い、いや、すぐ頭上から効き覚えのある声が聞こえてきたんだ。


「空中でイチャイチャとお楽しみのところ、お邪魔するのです~」


 僕とミランダは弾かれたように頭上を見上げた。

 するとそこに一羽の鳥が現れたんだ。

 それは小さな鳥だったけれど、僕にはそれが誰かすぐに分かった。


「アルフレッド様~。お久しぶりなのです~」

 

 この場にそぐわないノンビリとしたしゃべり方。

 僕がその特徴的なしゃべり方を忘れるはずがない。

 それは懺悔主党ザンゲストのメンバーである獣人アビーだった。

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