精霊恋花

琳谷 陸

精霊恋花

 おい何だこれ、と。晴天に山々と深い森に四方を囲まれた中心地にある丘の上で、精霊王とも呼ばれる事のある外見としては二十歳くらいの青年、樹宝きほうは自分の押し掛け嫁に来ている十代中頃の、白い長袖のワンピースを着た少女を見下ろす。

 正座するその腕の中には翼のある黒い子犬が抱かれていた。近くで流れる小川のさらさらとした水音が樹宝とは反対の和さだ。

 押し掛け嫁の少女こと、リトは小麦色の瞳をうるっと潤ませ、樹宝を見上げている。

 樹宝はエルフよりは控え目に尖った耳をピクリと揺らした。纏う衣は西方の仙人と呼ばれるもののそれで、腰を越す長い萌葱色の髪をざっくり三つ編みにして背に流し、苦々しそうに右の唐紅色からくれないと左のだいだいと色違いの双眸そうぼうを歪めて口を開く。

 樹宝は常々こう思っているのだ。

 人間は面倒で厄介だ――と。

「そいつは何だ」

(例えば、この目の前で勝手にある日押し掛けてきて嫁になると言ったこの人間の小娘)

 白金プラチナのふわふわとした長い髪と白すぎる肌。手足はすらりと長いと言うより、痩せすぎて細い。全体的に少し力を込めたら折れそうな身体だ。

(そのくせ、こっちを真っ直ぐ見てきやがる)

 小麦色の色素の薄い瞳だが、そこに浮かぶ意思のような光は小さくとも強い。一言で言って変な奴だと樹宝は思っている。と、まあそんな事は横に置いておくとしても、端的に言って居候の身分である事に変わりない。

 居候の分際で何拾ってきてんだ? あ゛? というオーラを発する樹宝に、リトは子犬をしっかり抱き抱えつつ返事をする。

「森の中で動けなくなってて」

 翼に湿布、左前足に包帯をしている子犬は赤い瞳で生意気そう(樹宝にはそう見えた)に樹宝を見返していた。

 可愛くない。

「元の場所に戻してこい」

 樹宝の言葉に黙りつつも、リトはじっと樹宝を見詰めたままだ。完全に拒否している。

 そんなリトに樹宝はひくっと口許引きつらせた。

 のだが。

 樹宝が口を開いた所で、声がした。

「樹・宝・さぁん?」

 反射的に樹宝の背筋が伸びる。そんな樹宝の背後から、声とその主が静かに近寄ってきた。

「いつも言ってるよねぇ? お嫁さんには優しく、ってぇ」

 ダラダラと冷や汗かきつつも、振り返って樹宝は言葉を返そうと試みる。

「ビオルさん……俺はこの小娘を嫁にした覚えは――――いってぇ!」

「自分のぉ、お嫁さんをぉ、なぁんて呼び方してるのかねぇえ?」

 頭から足元まで、薄茶色のローブで全身覆われ、見えるのは口許と一房こぼれた長い緑青色の右前髪のみ。そんな布の塊としか言い様のない人物、ビオルは樹宝の頭を小気味良い音ですっぱ抜いたハリセンを手元でパシパシと鳴らしていた。

 音は派手だが痛みは本来そんなでも無い……はずなのだが、頭押さえる樹宝の目は薄く潤んでいる。

「ビオルさん」

 そんな光景にビオルに声かけつつも、リトは頭押さえる樹宝が心配なのか、その視線は樹宝とビオルをいったり来たりしていた。

「おやぁ、なるほどぉ……」

 ビオルの視線を受けて、リトの抱く子犬がビクッと震える。ビオルが、くふふと笑いながら小首傾げ。

「ねぇん? どうしてそんな姿でぇ、リトさんの腕におさまってるのかなぁ? 魔王さんや」

「え……?」

 ビオルの言葉に目を丸くするリト。そしてその腕の中に抱かれた子犬は、何この化け物、としか言えない感じの雰囲気を出していた。

 それはそれとして、樹宝の刺々しい視線とビオルの指摘に腕の中に収まっているのも限界と感じたのか、子犬がリトの腕からスルリと降りる。

 その姿はたちまち青年と呼ぶに相応しい人型になった。

 背丈は樹宝とそう変わらない。紫掛かった長い黒髪に夕陽色の涼しげな目許と白皙の滑らかな肌、黒い軍服めいた装束を纏っている。美青年と呼んで差し支えないだろう彼は、布の塊にしか見えないビオルに警戒心も露に問い掛けた。

「貴様、なんだ……?」

 対するビオルは袖を軽く口許に添え言う。

「あは。ただのぉ、風精霊の仮長だよぉん。それとリトさんのぉ後見人かなぁ」

 クスクスと笑うビオルとそれを胡散臭そうに見る青年。

 とそこで、事態に目を白黒させていたリトが呟く。

「ワンちゃんが……」

 ハッたしたように青年が軽く咳払いしてからリトの手を取り、跪く。

「乙女。改めて礼を言わせて欲しい」

 それは一幅の絵画のような光景だった。木漏れ日の中、王子が姫に求婚するかのような。

 キラキラとした雰囲気のそれに、樹宝は苦虫を噛み潰したような顔をする。対して、姫の位置にいるリトは目をパチパチとして理解が追い付いていない。

「私はあやかしの王。ナハトという。乙女の名は?」

「あ……。ミルリトン・マーシュ・マロウです」

「おい。不用意に、妖に名を教えるな。とり憑かれても知らねぇぞ」

 樹宝が呆れて片手で額を押さえながら言った言葉に、青年が夕陽色の瞳を眇る。

「貴様……、先ほどから聞いていれば、乙女への無礼が過ぎる」

 瞬間、樹宝と青年の間に不可視の火花が散った。

「はっ、乙女? どこに」

 直後、樹宝の後頭部にガッッとした衝撃と痛みが走る。実行犯であるビオルは樹宝を沈めたハリセンの柄尻が凹んでいないかを確かめつつ、青年を見遣った。

 嫁として押し掛けているリトはすぐさま樹宝に駆け寄る。

「樹宝さん!」

「あは。放っておいて良いよぉーそれくらい。大丈夫大丈夫ぅ」

 どう見ても大丈夫には見えない訳だが。

「ところでぇ、ナハトさんや」

 くるっとビオルがナハトへ向き直ると、やはりその光景にドン引きしていたのだろうナハトの肩がビクッと揺れた。

「何だ」

「最近外の森とかが騒がしいんだけどぉ、心当たりあるぅ?」



「アルラウネの種子? ですか?」

 リトの為にきゅうごしらえで作られた真新しい小屋の居間兼食堂。そこにある一つのテーブルに、樹宝達は着いてナハトの話を聴いている。

 小首を傾げて初めて聞いた言葉を繰り返すリトにナハトは苦々しい顔をしつつも付け加えた。

「アルラウネの種子は人間の間で宝石として珍重されているが、実体はアルラウネという妖の赤子だ」

 リトの瞳がその言葉にみはられる。

「正確には、孵化する前の卵と言った方が正しいか」

 種子でも卵と大差ない。より分かりやすい表現にしつつ、ナハトは眉根を寄せて言葉を続ける。

「そのアルラウネの卵を不届きにも盗んだ輩が、この辺りまで逃げてきている」

 なるほどぉ、と納得しているビオルと嫌な予感の樹宝がナハトをじっと見た。その視線が揃ってリトに向くのと、リトが叫ぶの、果たしてどちらが先だったかはわからない。

「それって赤ちゃんが拐われた、ってことじゃ!?」

(おい。物凄く嫌な……面倒な予感がするぞ!?)

 ちらっとリトを見る樹宝を横目に、事態はその予感が的中する方へと向かう。

「そうだ。私はそれを追っていたのだが」

 ナハトは悔しそうな表情と怒りとわかるオーラを纏って続ける。

「小賢しい魔術師め……」

「……人間ごときにやられてそのザマか」

 妖の王も大したことないな、と樹宝がボソッと言うと、ナハトは樹宝をキッと睨む。

「赤子を人質に取られては滅多なことなどできぬ!」

「うーん。大変だよねぇ」

 よし、と何か決めたらしいビオルの声に樹宝の嫌な予感は確信に変わる。

「リトさんやぁ、ちょっとナハトさんを手伝ってあげてくれるかなぁん?」

(ビオルさん!?)

 樹宝が心の中で叫び、ナハトが「え?」と固まる。うふふと笑うビオルにビックリして固まるリト。カオスだ。

「え……。私ですか?」

「そぉ。もちろん危なくない範囲でねん」

「ビオルさん!? こいつが何の役に立つって言うんです!?」

 樹宝の一言にぴくっと小さくリトの肩が震えた。

 あはーとビオルが笑う。

「樹宝さんに聞いてないよぉ。で、どうかなん?」

 フードの下にある見えないビオルの視線とリトの視線が交わったのは数瞬。

「はい! 私、お手伝いします!」

「おい!」

「あは。決まりだねん。じゃ、樹宝さん、しっかりぃリトさんを守ってねぇ」

「いや、何で俺が!」

「当たり前でしょお? 自分のお嫁さんを自分で守るのは」

「だから! 俺は嫁なんて認めてないんですが!?」

 樹宝の言い方に不満を募らせ、ナハトが口を開く。

「貴様、乙女に何かあったら」

「あはん。そうならないようにぃ」

 ビオルはにっこり笑ってリトに背を向け、樹宝とナハトの肩をしっかり掴まえる。そして二人にしか聞こえないくらいの声で、

「しっかり……守ってね?」

 静かだがマジの気迫に樹宝とナハトが黙って頷く。それだけ言って、ビオルはくるっとリトの方に向き直る。

「じゃあ、リトさん。お買い物に行ってくれるかなん?」

 夜までに帰ってきてね、と言うビオルに三者三様の思いを抱え、頷いた。



   ◆   ◆   ◆



 狭間は上から見ると峰が連なってひし形のように見える。その中心にある丘の上に樹齢千年を越える大樹の下、一人の少女がにっこり笑顔でこう言った。

「精霊王様のお嫁に来ました。リトって呼んで下さい」

「要らん。帰れ」

(そう。人間だろうが何だろうが、俺に嫁など不要だった。なのに……)

「樹宝さぁん? せっかくきてくれたお嫁さんにぃ、その態度はないよねぇ?」

「ビオルさん、俺は認めてないんですが」

「あは。気にしなくて良いからねん」

「ビオルさん!?」

 風の精霊を束ねるビオルは、押し掛け嫁宣言をした人間の小娘リトを迎え入れた。

「寝るところはひとまずぅ、私のものを使ってもらうけど良いかなぁん?」

 洞窟というか岩場に窓とドア付け、後は土の上に板と敷物を置いただけの場所。人為的な灯りは精霊にとって特に必要ないのでランプなどもない。そんな場所を見せられても、リトは笑顔で頷いた。

「はい! よろしくお願いします」

 思えば、この時点で逃げ帰るなり文句の一つでも言ってくれれば、こんな事にはならなかったのにと、樹宝はげんなりした顔で黄昏に染まる人の市場を眺めていた。

 狭間を囲む峰の西側に立った市は、西方の色が濃く、それは言語の統一がなされて千年が経つ今も行き交う人の服装や取り扱う品々にも見てとれる。

(やっぱあの時、追い返しておくんだった……)

 ちらり視線を向ければ隣で物珍しそうにキョロキョロするリトが見える。しかし、珍しさに目を輝かせる一方でその細く小さい身体がコホコホと咳き込んで揺れるのが妙に気に障った。

「大丈夫か、乙女」

「あ……。大丈夫です! ちょっと咳がでたみたいで」

「またぶっ倒れるんじゃねーだろーな」

(ヘラヘラ笑って、そのままぶっ倒れた前科があんだろーが)

 押し掛けてきて、ビオルにひとまずの宿を見せられた後、リトは倒れた。

 そのまま三日三晩、樹宝とビオルは看病に明け暮れたわけだが、別に何か特別な病という訳ではなく。

(極端に虚弱過ぎるだろ!)

 心情が昂っても、ちょっと家事を頑張っても、日常生活を少し気合い入れただけで倒れる。

 ビオルが根気強く体質改善の薬を調合し、それを服用するようになってからは少し症状が緩和されたものの、それでも不安な程度にはまだ虚弱。

「大丈夫です。ビオルさんのお薬、とっても良く効きますから!」

「当たり前だ」

 ため息をついて樹宝が片手で顔を覆う。

 顔バレしてるのでナハトはフードつきマントを被って辺りを見回し、ちょっと瞳細める。

「それにしても、本当にこの市に奴らがいるのか?」

 その言葉に樹宝はリトを挟んでナハトを睨む。

「てめえ、ビオルさんの言ったことを疑うのか」

「あのあからさまに怪しい布の塊の、何を信じろと?」

 すっぱり言い返すナハトの言葉に、樹宝が噛みつく。

「なんだと?」

 二人の間でおろおろしながらも、何かを見つけてリトが声を上げる。

「あ、あの!」

 その声に樹宝は無言で、何だ、とリトを見て、

ナハトは大人気ない所を見せたのを恥じて視線を逸らして俯く。

「すまない。どうした、乙女」

「あれ……」

 こっそりとリトが示した方をナハトと樹宝がそちらを見ると、貴族っぽい魔術師とその手下二人くらいが何か話しながら雑踏に紛れていくのが辛うじて視界に収まった。

「間違いない、奴らだ!」

「待てっつーの!」

 飛び出そうとするナハトの後ろ襟を樹宝が掴む。

「馬鹿かてめえ。少しは頭使え。この脳筋が」

「貴様、誰が!」

「今いってもこの人混みだぞ。逃げられるに決まってんだろ!」

 それとも人間一掃して道作る気か! と樹宝が小声で言う。その言葉にナハトは返す言葉もなくぐぬぬと黙った。案外、本当にそうするつもりだった線も否めない。

 兎にも角にも一旦は落ち着いたナハトを見てホッとしつつ、リトは不思議そうに首を傾げた。

「ビオルさん、何でわかったんでしょう?」

「てめえらナメるなよ。あの人は風精霊の長だ。風精霊は大気や情報伝達を司る。ここが一番近いポータルだってことも」

 言いながら視線を別の方向へ樹宝が向ける。

「急いで逃げるなら、ここだってのもわからねえ筈がない」

「ポータル?」

「あのなぁ……。ここに来るのにも似たようなのを使っただろうが」

 覚えてないのかと言いたげな顔でリトを見つつ、樹宝は続け。

「人間の魔術師が使う移動手段だ。特定の場所から場所へ一瞬で移動できる」

 樹宝がちらっと、ナハトを見た。

「天を駆けられる妖から、いくら魔術師つっても逃げ切るのは至難の業だからな」

 人質とってるとはいえ、それだけで逃げ切られるわけじゃない。まして、魔王と呼ばれるような存在に怪我まで負わせたのなら有りとあらゆる有利な条件を整えて襲ったのだろう。

「でもそれじゃ、急がないと逃げられ……」

「それは大丈夫だ、乙女。ポータルは常時使えるわけではない。使えるものも勿論あるが、大抵は条件がつく」

「いつも使えるんじゃないんですか?」

「そんなホイホイ使えるか。ポータルごとにそれぞれ条件があんだよ」

「条件?」

「時間であったり、供物であったり。条件は場所ごとに違うのだ」

 ある意味、関所みたいなもの。

「夜までにってビオルさんが言ったってことは、ここのは少なくとも時間が条件だろ」

「今、奴らがのん気に歩いているなら、夕刻から夜に入った直後か」

「えっと、夕方までにみつけて返して貰うってことですよね」

「その通りだ。乙女」

 ナハトが甘い顔でリトを褒めるのを呆れ顔で樹宝は見て、それをそのまま声音にも表しつつ言う。

「まずはポータルの場所から探す」

「そうだな。逃げ道さえわかれば、次は逃がさぬ」

「はい! ……でも、どうやって?」

「アホか。お前は大人しくビオルさんから頼まれた買い物でもしてろ」

「え……」

「言い方に難があるが、その点については私も同じだ。乙女に危険なことはしてほしくない。十分助かった。後は我らに任せて欲しい」



(私、どうしたら樹宝さんたちの役に立てるのかな)

 足手まとい。それはわかっていた。

「はいよ、お嬢ちゃん」

「ありがとうございます」

(ビオルさんは、どうして……)

 お使いメモと品物を照らし合わせ、ふと顔を上げた先に先ほどの魔術師を見つけ、リトは慌てて見失わないように追いかける。

(人が、多い……!)

 来たときより陽が傾き黄金から茜に変わり始めた市は影が濃く落ち、夕飯の材料を買う為か商人以外の主婦なども入り全体として人が増え、なかなか前に進めない。

(いた!)

 それでも何とか魔術師の後ろ姿を追い、仲間と合流するのを物陰から確かめる。魔術師の仲間の一人が離れてどこかに行くのを視界の隅に、少し咳き込みつつ、様子を窺う。

(きっと、あの人たちの居る所を確認できたら、役に立てる)

 それでも咳き込みが段々抑えられなくなるくらい激しくなり、香水瓶のようなポンプ付きの薬を取りだし、吸入しようとした。

(え?)

 一呼吸分、薬を吸い込んだ時、自分以外の影がリトの上に落ちた。




(ああ。これ、夢だ)

 ぼんやりする意識の中、ふっとリトはそんな事を思った。

 雨風がしのげればそれで良いと言った風情だった洞窟の入口には木で作られたドア。小さいけれど窓も出来て木枠が嵌め込まれているし、地面に板と布を敷いただけだった寝床はいつの間にか、リトが収まるくらいの箱の上に藁のマット、チクチクしないように敷布と枕、それに暖かい毛布と掛け布など、至れり尽くせりだった。

 土と、壁に掛けて干された薬草の匂い。パチパチと、これまたいつの間にか小さな暖炉で火が燃えている。灯りの傍で、ビオルが乾かした薬草をすりおろしたり、何かの液体と混ぜていた。

(あれ、苦いんだよね……)

 初めて口にしたとき、思わず涙が浮かぶほど苦かった記憶が蘇る。同時に、笑みも浮かんだはずなのに、自分の口許はピクリとも動かないから、やっぱり夢なのだろう。

 光の差さない窓から、今は夜だとわかった。

 不意に、ベチャリと何か濡れたものが額に乗せられる。

『樹宝さんやぁ、それじゃあダメだよぉん。タオルはちゃんと絞らないと……』

 ビオルの声に、その絞っていないタオルを乗せた樹宝は再び額から取り上げ、どうやら横に置いてあるらしい桶に水を絞った。今度は、気持ち良いタオルが額に乗る。

(お嫁さんなんて、要らないって、言ってたのに)

 そう思うのと同時に、また景色が変わる。同じ場所ではあるが、窓から穏やかな陽の光が入って室内を照らしている。

 咳をして寝込んでいるらしく、視界が時折揺れ、それ以外で身体は動かない。

 その間にも、何度も。額の固く絞られたタオルは樹宝によって取り替えられる。

 要らない。帰れとまで言ったのに、タオルを替えて、寝台のすぐ隣でイスに腰掛ける樹宝の顔は、心配そうで。

 どうすれば良いのかと迷うように視線を揺らし、恐る恐るリトの頭を優しく撫でる。

(要らないって、言ってたのに。なのに……)

 撫でる手は優しく、何となく安心できて、少し楽になった気になるから、咳も少しだけ鳴りを潜めて。

 それを看てとった樹宝が、ホッとしたように、優しく微笑むから。

(そんなに優しくされたら、本当に好きになっちゃうじゃないですか……)

 嫁入りは勢いと意地だった。

 ずっと些細な事で寝込む熱を出す体質が嫌いだった。両親が亡くなり、引き取った親族も虚弱すぎる娘の扱いに困っていたのが、隠してもわかって。

 狭間の地には全ての精霊を束ねる精霊の王がいる。そして数十年に一度、精霊王の花嫁として年頃の少女が選ばれ、森へ向かう。

(わかってた。森へ行くのも形式。本当に行く必要なんてない)

 それでも。帰るわけにはいかなかった。帰る場所なんてなかった。押し掛けて、迷惑を掛けて、それでも。迷惑を掛けているとわかっていたからこそ。

(樹宝さんの、役に立ちたい……)

 迷惑だと言っても、心配して看病してくれた。

 さっさと放り出されても当然なのに、側にいさせてくれる。

 その優しさに、甘えるだけじゃなく。

(少しでも……私でも、役に)

 夢はぼやけて、やがてふわりとした浮遊感。唐突に身体が重くなり、息苦しくなる。自分の咳き込む音と身体をくの字にする動作に、意識は覚醒していく。

 夕闇の手前。紫紺の闇。円形の石の板の前に手足を縛られ、転がされているのだと気づいた。冷たく湿った土の匂いと感触が伝わってくる。

 身体を起こそうにも、手足を縛られているし、頭がズキズキと痛む。意識の途切れる前に薬品のような臭いがしたから、そのせいだろう。

 それでも足掻いていると、視界に靴先が見えた。視線を上げれば、その靴の主であるローブ姿の男が短剣を片手にしているのが見てとれる。

魔術「目が覚めたか。眠っていれば安らかに逝けたものを」

 見下ろすのは冷たい視線と笑み。魔術師が短剣を掲げ、勢い良くリトへと振り下ろすのが見え、リトは反射的にぎゅっと目を閉じた。

「ざけんな」

 その声と共に、魔術師の驚く声と大きな蹴り飛ばすような音。

 犬の唸り声がして、悲鳴が聴こえる。目を開くと、大きな黒い翼を持つ犬が次々と魔術師とその仲間に襲い掛かっていく。

 どうにか身を捩って顔を上げる。そこには、リトを怒りの形相で見下ろす樹宝の顔があった。

「お前、なに簡単に諦めてんだ?」

「樹宝さん……」

「要らねえって言った俺の言葉無視して、居座る奴が、俺じゃなく、あんな三下に命くれてやってんじゃねーよ!」

 大きく息を吸い、真っ直ぐリトを見て。

「この大馬鹿が!」

 一喝と同時に拘束していた縄が切れる。ふわりと風がリトの頬を撫でる。

「お前は俺のモノだろうが」

 その言葉に小麦色の目を見開くリトの視界に、魔術師が樹宝目掛けて火球を打つのが見え。リトは無我夢中で樹宝を庇うように前に出ようとして。

「うるさい。このバカを教育中だ」

 火球は樹宝に触れる前に掻き消えた。

「あは。精霊王にぃ、魔法は意味ないよねん」

 いつの間に来ていたのか、ビオルが魔術師の手下を縛り上げつつクスクス笑っている。

 止めのように絶対零度の双眸で樹宝は狼狽する魔術師を見て言う。

「失せろ」

 あたふたと逃げ出す魔術師にはもう目もくれず、樹宝は守るように前に出ようとして、恐らく突き飛ばしてでも守ろうとして力が足りずあえなく失敗、結果樹宝に抱きつく形になって固まっているリトを見下ろす。

 じっと見詰め、樹宝はため息つきながら、リトの頭をポンポンと軽く叩く。

「帰るぞ」

 その言葉は事件の幕ひきを告げていた。



「世話になったな。乙女」

 ナハトは片腕に取り返したアルラウネの種子が納められた包みを抱き、リトに微笑む。

「いえ、結局、私は何も……」

「乙女。私の妃にならないか」

「え!?」

 ナハトの唐突な言葉にリトが驚き、樹宝が吹く。

「乙女ならば、私の妃にふさわしい」

 嫌か? と優しく聞くナハトにリトが真っ赤な顔であわあわどうにか断ろうと挙動不審になる。そのリトの左手首を樹宝が掴み、

「樹宝さん!?」

 そのまま面白くなさそうな顔で薬指の第二関節辺りをあぐっと噛んだ。

「これは俺のだ」

 噛まれたリトの左手薬指に一瞬指輪のように唐草模様のようなものが浮かぶ。

「あはん。精霊王の加護だねぇ。魔法攻撃は無効だしぃ、どこにいても見つけられる」

 良かったね、とビオルが笑って言うが、当のリトは顔から湯気が出そうな感じで真っ赤になって固まっているので聞こえていなそうである。

 樹宝の行動にナハトが呆れたように頭をやれやれと振った。

「乙女を探していた時の顔と、その行動はどちらが見苦しいかな」

「さっさと帰れ駄犬」

 ナハトは笑いながら飛び立ち、「また来るよ」とリトに手を振る。

「さ。帰ろうかねぇ」

 そそくさとビオルが先に歩き出すと、樹宝とリトが必然的に残された。

(何でこんなことに……。いや、考えんな)

 真っ赤で俯くリトに樹宝がため息ついて、手を差し出す。そろりと意を決してリトは顔を上げる。

「出来ることをしたんだろ。なら、良いんじゃねーか。結果はともかくな」

(考えたって、答えがでねぇ事だってある)

 不要、面倒、そんな風に思っていたはずなのに、手放すのも誰かにとられるのも面白くないと思う矛盾とか。考えても答えが出ない事もあるのだと、樹宝はそう思う。

「帰るぞ。……まあ、今回はよくやった」

 なら、考えても仕方ない。だから、好きなようにすれば良い。

 樹宝が差し出した手に、リトは満面の嬉しそうな笑顔で自らの手を重ねる。

「はい!」



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精霊恋花 琳谷 陸 @tamaki_riku

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