第9話 「桃の木の話」より ~なぜ世にあることはさみしいのか~

 私が車谷長吉氏の「桃の木の話」を読んだのは、今から二十年ほど前、高校三年生のときだった。車谷長吉という作家は当時高校生の間で人気があったわけではなかったが、偶然受けた模擬試験に氏の『鹽壷の匙』という作品が取り上げられており、興味を持った。私は元来理科が好きだったが、また国語も好きだった。車谷氏の文章はそれまで目にしたことのないような興味を引かれるものであったため、後日本屋を探し回り、文庫本を買い求めた。その本に、当作品が収録されていたのだった。

 この作品の最後に「世に在ることはさみしいな、と思った」(P45)という言葉が出てくる。当時、一読してみてなんとなくわかるような気もしつつ、あまり突き詰めて考えてみなかったので、今回は、細かくみていきたい。


 この作品は、主に二つの事柄について書かれている。一つ目は前半部分の、作者が小学四年生のころに、バスの窓から通りすがりに一瞬見た光景についてである。

「高さが六メートルはあろうかと思われるような巨木だった。その巨きな木が農家の庭先にぽつんと一本、満開の花を咲かせていた。あ、と息を吞むほど見事な花だった。隣りに安普請の建売住宅が並んでいて、物干竿に女のシュミーズがぶら下がっていた。バスの窓から通りすがりに一瞬目にしただけの光景だが、美しいものといっしょに、何かむごいものを見たような印象が残った」(P43)。


 一読するだけで、光景がありありと目に浮かぶ描写であるが、それは作者の文章力だけの問題ではなく、この「満開の桃の花」と「物干竿にぶら下がる女のシュミーズ」の組み合わせの異様さも関係していると思われる。バスの窓から一瞬見ただけで忘れられない光景だったのと同様、読者が一読しただけでも忘れられないものとして映るのは、そのためである。私は「異様」あるいは「異質な組み合わせ」という印象を受けたが、作者はそこで「むごい」という言葉を使っている。このむごいというのはどういう意味なのだろう。


 咲き誇る桃の花の横で、女性の下着が干されている。小学生四年生の少年はそれを見てどう思ったのだろう。

 大人数の洗濯物ではなく、シュミーズだけが寂しく揺れている。そこからは普通の生活というよりも、なにか、世間から取り残された者のような雰囲気が漂っていたのではないだろうか。それが、華やかな桃の花という、一年のうちに一週間程度しか咲かない、どこか非日常的なものと組み合わされて、そこには作者の見たことのない世界は広がっていたのだろう。この作品はノンフィクションなのか、あるいはどの程度創作の部分が含まれているかは定かではないが、十歳前後の子供が、世界の端っこのような場面を目にしてしまい、よくわからないままに、それを「むごい」と表現したのではないかと考えられる。


 そして後半部分は、きみこさんという近所のおばさんの話になる。きみこさんは五十前後の典型的な田舎の百姓である。「農家に生まれ農家に嫁いで来たのだから、根っからの百姓のおばはんだが、謂ゆる百姓の野良声でわめき立てることもなく、どこかくらい表情の奥に物静かな微笑を湛えているような人である」。(P44)と描写されている。

 きみこさんは桃を大事に栽培していたのだが、その木は梅雨時のある晩、倒れてしまった。かなり前に幹の三分の二ぐらいのところまで鋸目が入れてあり、突風でも吹いたら自然と倒れるように仕組まれており、明らかに誰かが故意にやったことであった。桃はその春も花を咲かせ、実も例年通りよく実っていたため、倒れるまで誰もそのことに気づかないくらいであった。そしてきみこさんは、嘆くわけでもなく、倒れた木をそのまま道端に黙ってさらしておくのである。


 大事な木を切り倒されて無念であっても、自分がその村で今後も生きていくためには、犯人を暴き立てたりするわけにはいかないのかもしれない。大騒ぎして問題は解決しても、狭い村であればきみこさんが陰口をたたかれ、出ていかなければいけないことになるかもしれない。泣いているのを見られては思うつぼだと思ってなんでもないふりをしているのか、それともきみこさんがそもそも自分の感情に溺れるような人ではないのか。それくらいさばさばしていなければ、ここで百姓として生きていくなんてやっていかれないのか。百姓は、常に自然災害の影響を受けて、昨日までの努力が台風のせいで収穫直前の作物が全部なくなってしまうことだってありうるのだし、いちいち気にしていては身が持たないということなのか。

 一方作者の母親は、十年も前に田んぼの西瓜を盗まれたことをずっと根に持っている。未だに村の人に言い立てているのをみると、やはりきみこさんはちょっと特殊な人なのかもしれない。


 そうして最後は、「私は二十七年前に見たあの春爛漫の花の色と、女にシュミーズを思い浮かべ、世に在ることはさみしいな、と思った」(P45)と結ばれる。 

 きみこさんにしても、本来いるべきではない場所に存在している人、この田舎の村にとってはどこか異質な人としてとらえられているように思う。彼女がもう少し違う環境で生きていたら生きやすかっただろうに。もしくは、作者の母親のように、人の悪口を言いながら生きていけるような人だったら、もっと楽だったろうに、という思いが込められているようにも思う。


 小学校四年生のときが九歳、それから二十年経過し、この物語を語っている作者の年齢は三十六歳程度だと思われる。作者は、大学を卒業し、就職した会社を数年で退職後、十年近く料亭の下働きなどをしながら漂流物のような生活を続けていたが、ちょうどこれくらいの時期は、下働き生活に終止符を打ち、小説家を目指すために上京しようとしている直前だったと思われる。

 あの日見た光景に感じたむごさや、きみこさんが感じているであろう孤独を思うと、それまで作者がいた世界もまた、作者にとっては異質なものであり、その中で生きづらさを感じていたのではないだろうか。

 そう思うと、「世に在ることはさみしいな、と思った」というのは、静かな印象を受ける言葉ではあるが、立ち止まり、これから自分が飛び込んでいかなければいけない未知の世界を目前にして、なにか覚悟を決めつつあるような印象も受ける。

 自分はこれからそういうむごさやさみしさに真っ向から立ち向かっていかなければいけないという気持ちがある。それと同時に、ようやく自分自身がいたかった世界に足を踏み出せる、しかしそこでも自分が受け入れられるのかどうかはわからない。そこで存在できなければ、自分が生きていける世界はここにはない、そういう思いに至る一歩手前にいるようにも思える。

 作者がそこまで考えていたかどうかはわからないが、そういう仮説をたててみると、文庫本に十篇の小説が収録されていた中で、この短編が一際目立っていたのがなぜだかわかったような気がしたのだった。


引用文献 「桃の木の話」(車谷長吉『鹽壺の匙』(1995)新潮文庫)

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