記憶を踏みつけて愛に近づく
無月兄
佐奈子
その日夫である義男が帰ってきたのは、用意していた夕飯がすっかり冷たくなっていた頃だった。
「佐奈子、ただいま」
「お帰りなさい。お仕事お疲れ様」
結婚して三年目の私達。義男はいつも優しくて気遣いもできる、私にとっては最高の旦那だ。結婚してから、ううん、出会ってから今まで、喧嘩の一つだってしたことがない。
だけど一緒に暮らしている以上、たまに不満や愚痴の一つや二つが出て来ることがある。今日は、そんなたまにが出て来た日だった。
「遅くなるなら、もっと早く連絡くれてば良かったのに。私、ずっと待ってたのよ」
「忙しかったんだから仕方ないだろ」
仕事で何か嫌な事があったみたいで、珍しく声を荒げる義男。だけど一言のごめんも無しにそんな事を言われると、ますます不満が募ってしまう。
「そりゃそうだけどさ、一言連絡いれるくらい、ちょっとの時間でできるでしょ」
「食べたきゃ勝手に食べればいいじゃないか」
「そんな言い方無いじゃない!」
カチンときて、思わず私まで声を荒げてしまう。これは、出会ってから初めてのケンカになるかも。そう思ったその時だった。
「ああもう、いちいちうるせーな!」
義男はそう叫びながら、持っていた鞄を乱暴に床にたたきつける。そしてそのまま私の肩を掴むと、強引に壁際に追いつめてきた。
「義男……?」
「俺がどんなに大変かも知らないで、好き勝手な事言ってんじゃねーよ!」
いったい何が起きたのだろう。そりゃお互い喧嘩腰にはなっていたけど、いくらなんでも急にこんなになるものだろうか。掴まれた方が、ジンジンと痛んでくる。
今の義男は、私の知っている普段の優しい彼とはまるで別人だ。こんな乱暴で、敵意をむき出しにした彼の姿なんて、一度だって見たことがない。
(一度も? 本当に?)
なぜか、ふと頭の中にそんな疑問が浮かんだ。初めて見るはずの、凶暴な義男の姿。なのに何故だろう、前にもどこかで、同じような光景を見ていたような気がする。
だけどそんな事を考えている暇なんてなかった。激高した義男が何かを叫び、その手を大きく振り上げる。その後に待っていたのは、悪夢のような出来事だった。
「おはよう、佐奈子」
朝になって目を覚ますと目の前にあるのは夫である義男の顔。いつもは私の方が早く起きて彼を起こすのに、珍しい事もあるものだ。
「――って、今何時なの。もしかして寝坊しちゃった?」
慌てて時計を見ると、思った通り、いつも起きている時間はとっくに過ぎていた。急いで朝ご飯の用意をしないと。
だけど、慌てる私に義男は優しく言う。
「朝食なら俺が作ったから大丈夫だよ」
「そうなの。ごめんなさい、起こしてくれればよかったのに」
「いつもは俺が作ってもらっているからな。たまにはこんな日があってもいいだろ」
失敗したにもかかわらず、怒るどころかそんな風に言ってくれる義男は本当に優しい。そんな優しさに惹かれて、私はこの人と一緒になったんだ。
「ありがとう。義男だって、毎日忙しいのに。昨日だって…………」
何かを言いかけて、だけどそこで私の言葉が止まる。昨日、何があったんだっけ?
たしか、義男が帰って来るのが遅くなって、それからどうなった? ううん、帰りが遅かったのは、本当に昨日だった? 考えてみたけれど、まるで頭の中がグチャグチャになったみたいに、全然思い出すことができない。
「ねえ義男。私、昨日なにしてたっけ?」
「昨日? 別に普通だったよ」
本当にそうだろうか? 何の根拠もないのに、抜け落ちた記憶が不安を誘う。だけどそんな私の気持ちを察したように、義男が優しくいってくれる。
「最近疲れてるんじゃないのか? そう言う時こそ、しっかり休んでリラックスしないと」
「うん。ありがとう」
義男の気遣いを受け、温かい気持ちになりながら、朝食をとるためリビングに向かおうとする。だけどその瞬間、体のいたるところに鈍い痛みが走った。
「――――っ!」
「どうした?」
「何だか、あちこち痛くて……」
不思議に思い、寝間着を捲って痛む場所を直接見る。その瞬間、私は息を呑む
「なにこれ……」
そこには、痛々しい痣が広がっていた。いや、その一か所だけじゃない。他の所も確かめてみると、私の体のいたるところに、同じような痣があった。まるで、誰かに殴られたような痣が。
「なんて?」
普通に生活していて、知らずにこんな痣ができるなんて思えない。だけど、こんなの作るような原因なんて、まるで記憶にない。だけど現に、こうして痣はできている。
「わたし、どうしちゃったの?」
ついさっきまで考えていた、抜け落ちた私の記憶。それに対する不安が再び蘇ってくる。もしかしたらその間に何かがあったんじゃないか。そんな想いが、頭の中を駆け巡る。
「佐奈子……」
いつの間にか義男が、静かにそばにやってくる。そして、落ち着かせようとしたのだろうか、私の頭に、そっと手を置き、そして言った。
「すべて忘れるんだ」
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