第55話 師匠の話


 トゥユはサーシャにお礼を言った後、帝都を離れ旅を続けていた。

 帝国の色々な所を訪れてはその地方の食べ物や文化に触れ、どういう人がいるか、街はどんな作りになっているかをつぶさに観察していく。


 トゥユが一番面白いと思ったのは北の方に行った時に雪を始めて見た時だった。

 トゥユの住んでいた集落は常春のような気候で雪が降った事がなかったため、始めて見る雪に興奮が隠し切れなかったのである。

 話には聞いた事があった雪だるまを作ったり、ナルヤと本気で雪合戦をして泣かしてみたりとトゥユにとって忘れられない体験をしたのだ。


 トゥユの旅も数カ月が経過しており、当初の目的通り帝国の状況を把握できた所でそろそろイーナ村へ帰ろうかと考えていたのである。

 トゥユが帝国の南の方の村を訪れていた時である。トゥユが村の周囲を散歩していた所でトゥユと同じ位の背格好の少女が自分よりも大きな鉄の箱を引きずりながら突然やってきた。


「貴様何者だ? こんな瘴気を振りまいて他の者の迷惑だと思わんのか?」


 トゥユにとっては何の事か分からなかったが、ウトゥスにとっては分かり過ぎる程覚えがあった。


『我はウトゥス、貴様こそ何者だ? 人間ではないな?』


 普通の人間ならウトゥスの声を聞く事はできないはずだが、ウトゥスも相手が人間ではないと分かっているのだろう。

 だが、ここで少女が固まってしまった。暫くすると、少女は腕を組んで何やら考え出したかと思うと急に眼を開いた。


「私はシショウだ。これが私の名前だ」


 魔の森の生物は名前を持たない。それはティートの師匠でも例外ではなく、今まで人の村に来た時ものらりくらりと躱し名前を言わずに何とかしてきたのだが、これだけ面と向かって言われてしまえば何か名前を答えるしかなかった。

 師匠は何か良い名前はないかと考えていた時、ティートから「師匠」と呼ばれていたのを思い出した。それは決して固有名として呼んでいたのではないが、他に良い名前が思いつかなかったので「シショウ」と名乗ったのだ。


『そうか、それでシショウとやら、我に何か用か?』


 思いの外すんなりとシショウという名前が受け入れられてしまい、少し戸惑ってしまうが、話を続ける。


「何か用だと? 貴様……ウトゥスとか言ったか。ウトゥス、人の村で瘴気を振りまいて何をする気だ」


 ウトゥスとすればティートが居るなら瘴気を出してティートが困らないようにしていたのだが、今はティートがいないため、極力瘴気は出さないようにしており、殆ど人には影響のないレベルの漏れだと思っているので、何をする気だと言われても何もしないとしか言えなかった。


『我は人に危害を加える気はない。もし、我の瘴気を感じたのだとしたらシショウが過敏に反応しているのではないか?』


 シショウは不敵に笑う。


「ほう、私の思い過ごしだと言いたいのだな。それは良い度胸だ。覚悟はできているか?」


 二人の少女のやり取りに村の人が集まってきだしていた。ナルヤを見つけたトゥユはナルヤに村人を避難させるようにお願いする。


「私はシショウさんと友達になりたいけどどうかな?」


 シショウとウトゥスの会話を聞いていたトゥユはシショウに興味を持ち始め、首を傾けながら聞いてみる。


「私と友達だと? 馬鹿も休み休み言え。こんな瘴気を撒き散らすような輩の主人である貴様と友達になどなれる訳なかろう」


 シショウはトゥユの誘いを一笑に付すと持っていた剣を構えた。一瞬にして周囲の雰囲気が凍り、不用意に動けば確実に斬り殺されるのが分かる。

 トゥユは溜息を吐くと、ウルルルさんに向かって歩き出した。それは一見すれば隙だらけのように思えるのだが、シショウは動くことはなかった。

 トゥユがウルルルさんの所まで来ると戦斧を手に取り、巻いていた布をナルヤに手渡した。「ここから動いちゃ駄目だよ」トゥユの言葉にナルヤが頷くと、トゥユは再びシショウの所に戻っていった。


「それが貴様の武器か? 随分と大きいがちゃんと扱えるのか? 扱えなければ死ぬぞ」


 シショウが戦斧の大きさに興味を持ちつつ、トゥユに声を掛けるが、トゥユは頬を膨らまして怒っていた。


「私は貴様って名前じゃないよ。トゥユって言う名前があるの。人の名前はちゃんと呼ばなきゃ駄目だよ」


 今までトゥユはシショウに名前など名乗ってないのでシショウがトゥユの名前を呼ばないのは当然なのだが、そんな事は関係なかった。


「あっ、あぁ、すまん。とぅ、トゥユと言うのか。それでトゥユは準備は良いのか?」


 ちゃんと名前を呼ばれた事に満足したトゥユは笑顔のまま仮面を顔に着ける。


「もう大丈夫だよ。何時でも掛かってきて。私が勝ったら友達になってもらうからね」


 その言葉を聞いたシショウは鼻を鳴らすと地面を蹴った。


 ──えっ、早い。


 その飛び込み速度はトゥユが今まで戦ってきたどの相手よりも速かった。あのティートよりも速いのだからトゥユが驚くのも無理はない。

 それでも何とか体を反応させ、シショウの一撃を躱すが反撃することまで手が回らなかった。


「ほう、今の一撃を躱すか。なかなかやるな」


 シショウの方も多少の強がりを入れるが、内心では攻撃が躱された事に驚いていた。ティートでさえ最初はシショウの攻撃を躱せなかったのだ。それをこんな少女が躱すなんて信じ難いことだった。

 体勢を整え二人が再び対峙すると、今度はトゥユの方から斬りかかった。シショウと同様に一瞬にして詰めた距離で横に薙いだ戦斧は軽々避けられてしまうが、それはさっきのシショウの動きで分かっていた事だ。

 トゥユは一撃だけでなく、上下左右あらゆる所から攻撃を仕掛けるが、シショウに戦斧が届くことはなかった。


「へぇ、今の攻撃を躱すんだ。なかなかやるね」


 一連の攻撃が一つも当たらなかった事に悔しさを覚えるが、トゥユはそれを表に出すことはしなかった。

 小手調べは終わりとばかりに二人は相手の動きを警戒しながら円を書くように動き始める。


『トゥユよ、我も魔の森に居てあれ程の強さを持った者と会った事はない。油断はするなよ』


 ウトゥスに言われるまでもなくトゥユには油断をしている余裕などなかった。それどころか一瞬でも目を離せばそれで人生が終わってしまう程シショウの攻撃は鋭いのだ。

 円を書くように動いていた二人だが、どこかで打ち合わせをしたのではないかと思えるほど同じタイミングで前に出る。

 スピードでは一歩分、シショウの方が速い。その一歩の差でトゥユは防戦一方になってしまう。致命傷を受けるまでの傷は負ってないが、シショウの攻撃を全て躱しきれないので所々剣で切り裂かれていく。


 ──くっ! 凄い攻撃。全部躱しきれない。


『慌てるな! ゆっくり相手を見るんだ。トゥユならできる』


 ウトゥスの励ましも虚しく、トゥユの傷は徐々に増えていっている。

 何か打開策はないかと考えるトゥユは思いつく前に行動していた。それはザックの隊と戦った時に使った土を巻き上げての目隠しだ。

 戦斧を団扇代わりにした目隠しはシショウを中心として土煙が舞い上がり、シショウの視界を奪っていた。


「甘いな。そんな瘴気を撒き散らした状態では目隠しなど何の意味もない」


 土煙の中から放たれたシショウの突きがトゥユの鎧を貫き肩口に突き刺さった。

 マールが作った頑丈な鎧を貫いての攻撃にトゥユは動揺してしまうが、シショウの方も今の一撃で殺しきれなかった事に焦りを覚えてしまった。

 シショウの攻撃が止まった所でトゥユは後ろに飛び退き、体勢を立て直す。


 ──強い。今まであった中でも一つも二つも抜けて強いわ。


『あぁ、あの目隠しを瘴気を感じるだけで攻撃してくるとは信じられん。化け物だ』


 ウトゥスをもってしても化け物と言わしめたシショウは大きく息を吐くと再び剣を持つ手に力を込める。


『来るぞ! 気をつけろ!』


 再びシショウの攻撃が始まる。トゥユは何とか攻撃を躱しているが、先程食らった肩口から血が止まらず動くたびに血が地面を濡らしていく。


『余り血を流しすぎると拙いぞ。何とか隙を作らねば……』


 そうは言ってもシショウの攻撃が激しすぎ隙を作る暇などなかった。それどころかトゥユの一瞬の隙で勝負が決まってしまうのだ。

 防戦一方のトゥユも何度か反撃を試みていたのだが、一太刀もシショウを傷つける事はできなかった。


 だが、トゥユは徐々にシショウのスピードに慣れて来ており、最初の頃よりは傷を受ける事が少なくなってきていた。

 シショウもそれが分かっているのかその表情は徐々に硬くなってきた。


 ガキィィィィン!


 剣と戦斧が交わる音が響くと二人はお互いに飛び退いて距離をとる。


「この戦いの中で私のスピードに付いて来られるまでになるとは大した物ね」


 ティートでさえシショウのスピードに付いて行くまでかなりの時間を要したのだ。それはお世辞や阿諛あゆの類などではなく、シショウが心から感じた言葉だった。

 二人が顔を見合わせると再び前に出る。


 ──今度はスピードで負けてない。


 トゥユはそう感じ更に前傾を強めるが、シショウはトゥユの想像の上を行くスピードで迫る。


 ──嘘!? 更にスピードを上げた? 逃げなきゃ。


 トゥユが咄嗟に体勢を変え、上体を逸らすようにするとその上をシショウが突き出した剣が通過していく。

 何とか避けられたと思ったトゥユだったが、避け切れてはいなかった。


『グワァァァァ!』


 ウトゥスが悲鳴を上げたのだ。トゥユが避けたと思った剣はウトゥスを掠めていたのだ。


 ──ウトゥス大丈夫? ごめん、避け切れなかった。


『き、気にするな。我も戦っておるのだ傷を受ける事が有っても不思議ではない』


 ウトゥスの傷から黒い血のような物が地面へ零れ落ち、それは地面に吸い込まれる事はなく蒸発して消えていった。


『それにしても我に傷を付けるとは信じられん』


 そんなウトゥスの声が聞こえたのかシショウは構えを解いて剣を肩に担いだ。


「そんなに不思議? 剣に瘴気を纏わせればできない事ではないわよ」


 平然と言ってくるシショウだが、それがどれだけ難しい事かウトゥスにはすぐに分かった。

 瘴気を操る技量と良い、戦闘能力の高さと良い、今のままではトゥユがシショウに勝てる絵がウトゥスには見えなかった。


「私の友達を傷つける者は許さない!」


 ウトゥスを傷つけられた事にトゥユの怒りが爆発した。

 いきなりシショウに斬りかかったトゥユは初めて戦斧でシショウを傷つけたのだ。それはほんの小さな傷でトゥユが今までに受けた傷に比べれば些細な物だったが、シショウの顔には焦りが浮かんだ。

 幾らいきなり斬りかかられたとは言え、本気のスピードを出したシショウに傷を付けた者は今まで誰もいなかったからだ。


 そこからのトゥユはシショウのスピードに完全に付いて行けるようになった。シショウもこれ以上のスピードアップは無理で、互角のスピードでの打ち合いが展開される。

 シショウが大きくジャンプをし、剣を振り下ろそうとした所でトゥユは戦斧をシショウの体ではなく剣に向かって薙いだ。


 キィィィィン!


 甲高い音が鳴り響くと、シショウの剣は見事に半分から上がなくなっていた。


 ──勝った。


 いつの間にか正気を取り戻していたトゥユはシショウの剣を折った事で勝利を確信する。だが、勝敗はまだ付いていないのだ。このトゥユの一瞬の油断が命取りになってしまった。

 シショウは握っていた剣の柄を捨て、空中を回転して舞っていた刃の部分を素手で掴んだ。

 トゥユもすぐに気を取り直して戦斧を振るったが、軽々避けられ、トゥユはシショウに腹を蹴られた。

 後ろに弾き飛ばされたトゥユはウルルルさんに当たって止まることができたが、シショウの姿を見失ってしまう。


 トゥユが影を感じ上を向くと、蹴りを放った後、もう一度ジャンプをしたシショウが握った剣の刃をトゥユに向けて振り下ろしてきた。


 ──避けられない。


 トゥユが死を覚悟し、仮面の中で目を瞑るがシショウの剣が何時まで経っても刺さる事がなかった。


「消えた……だと?」


 シショウは辺りを見渡しトゥユの姿を探すが、トゥユは疎か馬や一緒にいた女性の姿すら見つける事ができなかった。

 今まで感じていた瘴気は既に感じる事ができない。シショウはトゥユが何処にもいないのを確認すると、その場に腰を下ろした。


「危なかった。あの一瞬の油断がなかったら負けていたのは私の方だったかも知れんな。それにしても、人間があそこまでの動きをできるのだろうか……くっ!」


 シショウは急に胸の辺りに苦しさを感じる。これは瘴気がかなり減ってきている証だ。


「仕方がない、今回は人の村を周るのは諦めるとするか」


 胸を抑えつつシショウが重い腰を上げ、消費してしまった瘴気を補充するため、持って来ていた箱を引きずって魔の森に帰って行った。

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