竜の試練 Ⅱ

 すると出るわ出るわ。一歩踏み出すごとにちゃぽんと水面に顔が増えていく。

 十メートルほどの距離にもなると二十ほどの顔が覗き、一歩踏み出すごとに相手も前に踏み出してきた。


 やはりハゼの半魚人じみた姿だ。体を左右に揺らしながら湖から這い出てきた。

 そのどこを見ているかもわからない淀んだ瞳に囲まれると流石に気分にも影響が出てくる。


「これ、軽い精神汚染かな。ということはこの原種はサハギンじゃなくて、今朝見た記事の影響……?」


 多少は遠距離攻撃を警戒してゆっくりと近づいていたが、その心配はないだろうと判断する。


 あれは老婆が生き甲斐を見つけた記事の前に見つけた。

 クトゥルフ神話を題材にした動画が流行り、様々な人に大反響を呼んだという記事だっただろうか。そのモンスターパニックで敵となっていたのがダゴンとディープワンだ。


 あの作品に登場する神話生物は目にするだけで人を発狂させる。

 表層世界で何度か発生したブームの影響で幾度か出くわした覚えがあるので間違いない。


『おおっと!? ミコトちゃん、ついに動き出すかぁっ!?』


 女給の声が大きく響く中、ミコトは杖尻で地面を叩く。


「前方、一面。そびえ立て」


 杖を媒介に魔力を浸透させ、十八番の結界を敷く。

 場所はディープワンの背後である。不可視の壁がざぱんと飛沫を上げて反り立ち、彼らの退路を断った。

 突然の音で反射的に振り返り、隙が生じるディープワンに向けてさらに仕掛ける。


「続けて前方、五柱。空中、八刺。――穿て」

『防御術式は硬度を維持する関係上、内部構造を常に意識するために通常は壁としての運用しかできない。硬度を維持しつつ変形までできるのは、ひとえに一般人の数段上を行く御子の才能によるものだ』


 頭上で解説が轟いている気もするが、要するにミコトにとっての結界は、変幻自在の見えざる武具だ。錐体にして伸長させれば槍となり、放てば矢となる。

 攻撃は狙い違わず合わせて十三のディープワンを刺し貫いた。即死でなくとも行動不能にはなっただろう。


 すると、これをシャッターチャンスとでも思ったのだろうか。上空に浮かぶ目玉が現場を眺めやすい位置に移動する。


『おおっと、これはえげつない! これにはかの串刺し公にも寒気が走る!?』


 ……実況に勢いがつくほどにこちらの気持ちは冷めていく。

 必要なことをしたらこうなっただけで、別に意図したところではない。ため息一つを挟んで向き合うべき子らに目を向ける。


「みんな、見えた? あの通り物理攻撃は通じるよ。脳や脊髄なら一撃。胸も呼吸阻害で致命的。腹や手足では即死にはならないから気を付けて。でも、関節の内側や筋肉の房の合間には血管や神経が通っているから、かなりの有効打が見込める」


 単に間引いただけ――少しでもそう考えた子はハッと気づいた様子で気を引き締め直していた。先程の脅しが上手く働いてくれたようで何よりである。


「じゃあ、頑張ってね」


 これ以上の手出しは過保護にもなる。杖を掲げて空中に結界による足場を作成してゲリ、フレキと共に身を引いた。

 体を揺らしてゆっくりと湖から這出てくるディープワンに対してどう戦うのか、少年たちの出方を窺う。


「相手はゆっくりだ。とりあえず遠距離!」


 歩く程度の速度なので攻撃し放題だと判断したのだろう。弓手や魔法使いと見える子が一斉に攻撃を始める。

 だが放った矢はディープワンの体表を貫き切れず、鏃の半分も刺さらない。


 一方、魔法使いの攻撃は有効だ。炎や風の魔法は一体、二体とディープワンを吹き飛ばしている。詠唱時間があるので接敵するまでに残り十数体を倒すのは五分五分というところだろうか。


「惜しいね。普通ならそれで何とかなっていたのに」


 ミコトは咄嗟に動けるよう、魔力を高めた状態で眺める。

 予想した通り、戦況は明らかに変わってきた。魔法の着弾が一発逸れたかと思うと二発目も外れ、三発目は明らかに遅れてくる。


「お、おい、どうした!? いつもは百発百中だって言ってたじゃないか!」


 剣を構えて待つしかできなかった少年は相棒の少女に目をやる。

 彼女は杖にもたれかかり、気分が悪そうに口を押えていた。再度詠唱をしながらディープワンを見るが、その途中で顔を青くして俯いてしまう。


 『怪物と戦う者は、自ら怪物にならぬよう用心したほうがいい。あなたが長く深淵を覗いていると、深淵もまたあなたを覗き込む』

 哲学者の言葉だが、精神汚染系の魔法に関しても同じことが言える。五感や魔力感知によって相手を捉えるほどに受ける影響も強くなるのだ。


 少年は弓手が同じ状況に陥っているのも目にする。

 これが神話生物の精神汚染による影響だということに気付いただろうか。


「槍! 俺たちでどうにか止めるぞ!?」

「あっ、ああ!」


 彼らは武器を握り直して走り出した。あああぁぁぁ! と声で気を奮わせているのがわかる。そのまま走る勢いに任せて剣で喉を貫き、何とか倒していた。

 けれども勢いのせいで深々と刺さった刃は骨にでも引っかかったのか、なかなか抜けない。槍にしても胸に突き立てたはいいが、即死には至らず焦って引き抜いて尻もちをついている。


 彼ら二人は魔術への適性が低いために精神汚染の影響も甘かったようだが、距離が近づいて影響が出始めた様子だ。吐き気や焦燥という形でそれぞれ翻弄されている。

 しかもディープワンは地上に慣れたのか、小走りを始めていた。これではすぐに囲まれ、文字通りに叩き潰されることだろう。


「ひっ……、わあああぁぁぁ!?」


 前衛二人にディープワンが群がろうとした瞬間、ミコトは杖を振るう。それによって瞬時に発生した結界が彼らへの攻撃を阻んだ。

 少年たちにとっては心底恐ろしかっただろうが、これも経験である。改善点は中継を見ている親御さんが後でしっかりと指摘してくれることだろう。


「至竜のみんな、仕切り直してあげて。攻撃はしなくていいよ」


 声をかけると、竜たちが動く。

 まずは前衛に近寄っていたディープワンを尻尾で大きく払い飛ばした。

 続いて気が動転してしまっている少年少女を舌で舐めたり、あるいは尻尾でぴしりと叩いて気付けをする。


 あちらにいる至竜は元犬が多かっただろうか。その仕草から以前の姿が透けて見えるようだ。少年少女の味方になってディープワンに威嚇を向ける姿は微笑ましい。

 親近感さえ覚える竜の姿に少年少女は呆気に取られると共に、混乱からは抜け出せた様子だ。


 ミコトは白紙になった彼らの頭に言葉を叩き込む。


「こういう精神感応系は怖いってわかってくれた? これへの備えは魔力容量を上げることや、魔力操作の上達。あとは防御用術式を組むとか。敵に五感と魔力感知を向けないのも小技の一つだね。そして何より、死ぬまで生き残るための手段を模索して心を保つこと。忘れちゃダメだよ」


 気分が悪くなる程度の精神汚染なんてまだ気の持ちようでどうにかなる部類だ。それができていないのはひとえに彼らには窮地から脱する経験が足りない故である。

 これもいい教訓になっただろう。先程までの助言を耳にした彼らはなんとか立て直そうと歯を食いしばっている。


 うん、よろしい。

 その心意気は十分と頷きながらミコトは湖に目を向けた。


 ゲリとフレキが警告として唸りを上げている。どうやらあちらの親玉も動き出すのか、魔力の乱れを感知した。

 この地域で散発的に生まれる原種の十数倍の魔力量だろうか。湖面からディープワンを五倍は大きくしたかのような半魚人が浮き出てくる。

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