#311:エピローグ終結、で候(あるいは、ジローネット/ただ此処に在りき)
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これ以上、無いほどの晴れ渡り方である。遥か彼方の山々の連なりも、はっきりとした稜線が見極められるほどに。肌をひりつかせんばかりの風は相変わらずの熱気を孕んでいるものの、己が心の高揚を昂らせるようなそんな心地よさを感じている。
のんびり浸っている場合では無かった。
「……ジローネット様、姫様の御仕度が整いましたゆえ、王の間の前まで」
張り出した宮殿の窓から我がボッネキィ=マの雄々しき自然を見入っていた私の背中に、柔らかな声が凛とした感じをも含みて響く。
「……」
振り向いた私の目に映るは、モクの穢れ無き白き
「あまり無理はするなよ、姫様もそれは望んでおられぬゆえ」
言わでもの私の、如何ともし難い無粋極まる言の葉を、軽やかなる微笑みでいつもいなし流してしまえるのは、何故だ。
「……私でしたら大丈夫ですわ。それより一生に一度のことですから、この子にも同席させてあげましょう?」
その全身から光が放たれているように見えるのは、何故だ。
モクの前では、自分の囚われてきた過去の哀切やら、いま現在も縛られている諸々のしがらみやらが、すべて溶けて一本の「糸」になっていくかのように感じる。奇妙なる例えだが。
天上へ連なる「糸」へと。
思わずかき抱きたくなる衝動を、私は全身の筋肉を総動員させて押し殺しながら、モクに……我が最愛なる妻に背を向け、身に着けた黒いローブを翻しつつ自らの持ち場へと慌てて向かう。
「大将、遅刻たぁ珍しいな。それもこの肝心な時にたぁ、何とも締まらねえ」
王の間の直前にて逸る足の運びを抑えたものの、絢爛たる装飾の施された青い扉の前で力無く突っ立っていた御仁には見通されてしまったようだ。
「むははは、緊張も無理は
その横でだらしなく大口を開けたのは、見た目は恰幅のよい御仁であったが。アオナギ殿と、トウドウ殿。二人共深緑色の
「入れ、ジローネットよ」
詮無いことを考えていた私に、汚らしい笑顔を浮かべた二人の手ずから開かれし青扉の向こうから、錫杖を地に突きし音と共に、それにも負けぬほどの凛をした御声がかかる。
「ジョシュア=ジローネット、参りました」
部屋全体に敷かれた緋毛氈に視線を落としつつ、私は入り口付近にてまず膝を突き頭を垂れる。石造りの壁が陽光に染まっている。静謐なる空間。と、
「あらジョシューさん、今日も男前っ、ささ、堅苦しい挨拶は無しでこちらにいらっしゃいな」
そんな私に掛けられたのは、姫様とは別の柔らかなる御声。目線を上げるとそこには目の覚める水色のローブを身につけし、おばば様……いや、カオルコ沙羅大帝后殿下の慈愛に満ちた御顔がこちらを向いていた。畏れ多いことこの上無いが、何故か私は気に入られているようであり様々な恩恵恩寵を受けているわけであるが。いやそれよりも。
「……」
細身ながらぴんと伸ばされし体躯は、えも言えぬ静なる迫力に満ちているようであり。二年ほど前の大手術、
アロナちゃん即位もいいけど、いい男捕まえなくちゃあねえ、ジョシュ―さんは逃しちゃったけどねえ、と歌うような言葉は、もうこの国のそれを完璧に習得なされているようでありまた、この国で暮らすことを選んでいただけたのは、望外である。何より、姫様の笑顔が増えた。
おばあちゃんっ? との年頃の娘のごたる言葉が姫様より出るようになったのもこの御方に因るところが大きいであろう。次の間にカオルコ様を押しやってから、改めて私と正対するが。
「……!!」
艶やかな漆黒の御髪は、これまた艶めく露わにされた首から肩へと連なる褐色の曲線を隠しつつ真っすぐに降ろされており。空色と雲色の緻密な刺繍と装飾が施された御体に沿うように設えられし
どうした? のように私をその漆黒の潤みを帯びた御瞳で見つめて来られるが、いや、日本に居た時はそういった事態であったため勝手に近しく感じていたが、やはり主従の立ち位置ははっきりさせておかねばなるまい……ッ。しかし、しかしこの御姿は……この国の美意識とは違えど、私には最早わかる……「少年」殿の言葉を借りるのならば……脊髄で。
「……お美しゅうございます」
私の声帯を震わせたるはそのような何の飾りも無い無粋なる言葉であったが。姫様は一瞬、その整いし鼻梁に皺を浮かばせると、「ばーか」という悪戯っぽい
……もう、かように言葉を交わすことも、出来なくなるのであろう。姫様は本日「即位の儀」をもってこの
「少し、話をしようか」
姫様は私を窓辺にいざなう。式まであまり時間は無いのであるが……無論逆らうことなどは出来るわけもなく。
「……
視線を、窓の下に広がる山々に移しながら、ぽつり繰り出されし御言葉は、私に向けられているのだろうか、御自身に言い聞かせているのであろうか。その双方のようであり、どちらでもないようでもあった。
おそらくは「世界」へ。「自分」以外のあまねく全てへ。
「
言葉を選んでいるようにも、自然と出て来ているようにも思えた。姫様もまた、
「おばあちゃんを救うことが出来て、そうして私も救われた気がした。そして自分と世界のありようを見聞し、検分し……物事の見え方が確かに変わったように思えた」
今の姫様に、かつて宿っていた哀しみの陰は微塵も無い。ただ何にも囚われず、何にも臆さずに、「自分」を流転せし世界と触れ合わせて、そこから必要な大事な何かを漉し取ろうとの構えで、しかして力み無くただそこに立たれている姿だけがあった。
「……
震えし声が、私の耳朶を打つ前に、私の身体はその熱ある体を抱き留めていた。このような時に掛ける言葉を知らぬ自分が、何とも情けなく思えたものの。
そして、式が始まった。
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