♭223:恋患かーい(あるいは、紅の/飛べないただの人間さ)


「……」


 結局も結局、何ひとつとして生かされることのなかったこの「9×9」のパネルの上で、私は元・夫に全身を抱き締められたまま、身じろぎも出来ずにいるがままだった。


「……今は愛していないかも知れないッ!! 愛せていないかも知れないッ!! だが……だが!! 人生を賭けてこれよりの人生をッ!! 若草キミを愛していくと、愛し続けていくと誓うッ!! だから、愛する機会チャンスをッ!! 与えてくれぇぇええああああッ!!」


 至近距離で歪む、小汚いペイントをした顔から放たれる絶叫のようなものは、私の鼓膜だけじゃなく、全身の皮膚をも、震えさせてくるように感じられたのだけれど。


 電撃は先ほどから放たれてはいない。ゆえにそれは「嘘」ではない……ということ。そしてこれほどまでに、自分の奥の奥らへんを見せてくるなんて、顧みての結婚生活で果たしてあったっけ……


 何より、自分を常に覆っていただろう、恭介さんの仮面のようなものが全部剥がれ落ちていっているかのように見えた。その顔面は派手に彩られてはいるものの。それが逆に、逆に本質的な表情を際立たせてきているかのようで。


 その目は私がいつも見慣れていた、涼しげで穏やかな光を湛えていたそれではなく、一見狂気とも捉えられるけど、生の、剥き出しの感情の発露口のような激しく歪み動く光を瞬かせていたわけで。


 でもどうしろって。


「……いまさらどうしようって……言うの。無理だよもう……私だってあなただってもう無理なはずよぅ……その、家系とか一族とか、そういうところもあったけど、そうじゃなかったところでも、私たちはもう無理だったんだって……」


 力無く声帯を震わせ、力無く開いたままの私の唇から紡がれるのは、そんな力無い言葉たちだけだった。


「『無理』は承知……だが無理はしようとも……それに賭けたいんだ私は……私は完璧な人間たれと育てられ……己もそう信じ生き進んでいた……そんな『錯覚』に頼らなければ、作られた『自分』をも保つことのできない弱い人間だったんだ……だが若草、キミと出逢えた。出逢えたんだよ……ッ!!」


 もう、言ってる意味は分からなかった。でも私を抱き締めるその両腕の力は徐々に強くなるばかりであって。


「私はだからッ!! アンタの財力に目が眩んだ度し難い女狐だったって、言ってるだろうッ!? わかれよもうッ!! そこに『愛』なんか無かったんだよッ!!」


 身をよじってもそこからは逃れられそうになかったほどの意外な腕力で、私はそれでも何かから逃げようと、棒立ちの姿勢のまま、言い放つのだけれど。


「『愛』ならあるぞ……ッ、『聡太』だッ!! 聡太こそが愛の証だ……ッ!!」


 息子の名前を出されて、一瞬、ぐううとなってしまう私。でも、


「気軽にたやすく呼んでんじゃあねえよぉッ!! お前が、お前に……何が分かるってんだよ……ッ!! 聡太を捨てたお前によォォォォッ!!」


 どうしても声が震えてしまうのを止められないまま、私は自由になる首だけを、天に向けて、そんな、どうしようもない言葉を打ち上げるばかりだ。いつの間にか、目から熱い何かを振り零しながら。


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