#055:刮目で候(あるいは、想いは/燦然として/cry)


「……いや、礼を言うのはこの私の方だった」


 モクの黒目がちな大きく艶やかな瞳を見ていると、さくりと引き込まれてしまいそうだ。かろうじてそこから視点を引きはがすと、私は我に返ってそう言う。考えてみたら、死の直前まで追い込まれた私を、果敢にその細けき体で助け上げてくれたのは、他ならぬ、この少女のような佇まいのモクであるわけであり。


 大河メッゾォスの急なる流れに呑み込まれた私を……その類まれなる泳術によって岸へと引き揚げたもうた。まったく、私なぞには想像すら出来ない偉業とすら思えることを、やってのけてくれたのであり。


 たかだかの私の棒術なぞ、取るにたらん事に思えて思わず嘆息する。そもそも悪漢に襲われた時でも、果敢に立ち向かっていったはモクが皮切りではなかったか。まったくもって恥ずべき行いしか今のところ出来ておらぬ私であるが、であれば夜通しこの場にて監視と護衛を行うことなど、些末なことに過ぎんわけであり。


 だんだんと己の思考が定まらなくなっていたのは、モクがその薄桃色の寝巻チャドウェラに包まれた体をじりじりと私の方に近づけてきていたからであり。


「き、貴殿の泳術、そして蘇生術によって、私は文字通り九死に一生を得たのだ。あらためて御礼申し上げる」


 謝辞の言葉を並べ連ねるものの、モクはというと首をゆっくりと左右に振りながら、さらに体を寄せて来るわけであり。あぐらのまま思わずにじり下がるも、背には姿見のひんやりとした感触が押し付けられるばかりであり。


「……当たり前のことをしただけです。それに……私にとって貴方様は、とても大事な方なのですから……」


 ん? なぜ私のような者が、モクにとって「大事」なのだろう……そんな、今にして思えば間抜けたことを考えていた自分に呆れもするが、当のモクは熱っぽいまなざしを私に向けながら、掠れそうな囁きを紡いでいくのであった。


「ずっと……ずっと好いておりましたのよ、幼き頃よりずっと。王宮でのお仕えを選んだのも、貴方様が、そこにいらっしゃったからにございます」


 モクが耳元で呟くように告げた言葉に、思わず硬直してしまう私であった。思い当たるふしが、無かったわけではない。常に投げかけられる軽やかな言葉と、振りまかれる可憐な笑みに、気付かない朴念仁を貫き通していたのは、私なぞが人の好意を受けるべきではないと、心に誓っていたからに他ならぬ。


 そうして私は他人を拒絶してきたのだ。自分が、幼き頃より周りの人間たちから拒絶を受けていたように。


 だが、今のこの心に渦巻く感情は何だ。私は……他の誰ならともかく、命を賭してまで私を救ってくれたこのモクには、自らの真摯な心で、向き合わなければならないのではないだろうか。


 いつの間にか、モクの大きな双眸には、きらめく何かが宿っている。


 私ははじめて、その紅に染まった顔を見て、愛おしい、という感情に支配されたのであった。


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