柵の向こう側の住人

aninoi

柵の向こう側の住人

 無闇に建てられた高層ビルほど嫌いなものはない。空が見えなくて鬱陶しいことこの上ないし、俺は高い所が苦手だ。


 そんな事を思いながら、俺はずっと下で忙しなく動き回る人混みを眺めた。

 場所はこの街で一番高いビルの屋上、柵の外側である。ちょっと不良が群れる路地裏に面しているが、悪くない立地のビルだ。


 何が悲しくてこんな高い所に来なければならないのか。いやはや、俺も不思議である。だが、ここでなければ見えない景色もあるのだ。


 ごろんと寝転がって、深呼吸。冷たい空気が肺に流れ込む。

 空を見上げれば、小さな星たちと真ん丸な月が登っていた。


 この街では、空はビルの屋上からしか見えない。

 街の灯りでそこまで美しい星は見えないが、まぁ、悪くない夜空だ。

 そりゃ、街の外に出ればもっと綺麗な満点の星空が見れる。だが、生まれ育った街の空を愛さない理由も無いだろう。


 俺は一人、こうやって夜空を見上げるのが好きだ。たまに下の人混みを眺めるのも好きだ。

 ……柵の外なのは、まぁ、厨二病を拗らせてるだけさ。


 とにかく、俺はいつもこうして一人で空を見上げている。

 誰か人が来たことは無い。


 だっていうのに、今日は少し事情が違った。


 ガチャ、と、扉が開く音がした。


 つられて振り返ると、どこかの学校の制服を着たボブカットの女の子が屋上に入ってくるのが見えた。暗い上に少し遠くて、顔はよく見えない。


 彼女はそのまま屋上を突っ切り、俺の数メートル隣くらいの位置から柵を登り始めた。

 彼女の呼吸は荒く、身体が震えている。とても正常とは思えない。


 やがてこちら側に立った──否、立ってしまった彼女は、混んだ街並みを睨みつけた。


 その時、とても、とても危うい何かを秘めた瞳に、俺は黙っていられることが出来なかったのだ。


「よぅ、お嬢サン。そんな熱心に下ばっか見ても、月は上にしかないぜ」


 あ、やべ、めっちゃイタい台詞で話しかけちゃった。


「っ、誰!?」


 焦る俺をよそに、バッ、と、彼女は勢いよく俺の方に振り向いた。よかった。話しかけた内容はスルーされそう。


「誰、って、先客ですよ、そりゃ」


「先客って、さっきは……」


「ずっと居たって。気づかんかっただけじゃね?」


 狼狽える彼女に、意味もなくニヤリと笑った。本当に意味はない。


「こ、こんな所で何を……」


「何を、って、まぁ、うん。空、見てんのよ、空。アンダスタン?」


「そ、そう、ですか……」


「そーゆーユーは、何をしに?」


「わ、わたしは別に、何も……」


「あっそ」


 片や肩を震わせながら、片やヘラヘラと笑いながら。奇妙な会話だ。


「よぅ、とりあえずよぉ、こっち側は危ねーよ。落ちちまうかも知れねーぜ。向こう側に戻りな?」


「あっ、あなたに言わたくないです!」


「クッ、ハハハハハ! そりゃそうだ! 説得力の欠片もねぇな、この状態じゃ!」


 俺は寝転がったまま、腹を抱えてゲラゲラと笑った。今のやり取りは結構好きかもしれん。

 笑いながら、ようやく俺は彼女の顔を見た。普通の、どこにでもいそうな女の子だ。顔からは困惑の感情が容易に見て取れる。だが、言い返してくるところはしっかり言い返してくるあたり、気弱な娘ではなさそうだ。


「あぁ、だがなぁ、そこまで悪い事を言うつもりはねぇから、とりあえず向こう側に戻れって。こっちも向こうも景色はそんなに変わんねーからよ」


「……そうですか」


 不貞腐れたように言いながらも、彼女は向こう側に戻った。すごい律儀だ。俺だったらうるせーっつって隣に座り込むんだが。


 柵を越えて向こう側に戻った彼女は、何をするでもなくぼーっとその場に突っ立ってるようだった。俺は外側を向いて寝転がったままなので、音が聞こえないことだけが彼女の状態を知らせる要因だ。そして俺も、それ以上彼女に何か話しかけることをしなかった。


 どこからか、車のけたたましいクラクションが聞こえる。うるさい静寂だ。


「……あの」


「へぇっ!? ……あぁ、いや、なんだ?」


 急に話しかけられて、思わず素っ頓狂な声が出る。めっちゃ恥ずかしい。だが、ここは何事も無かったかのように流してもらうとしよう。いや、流してください。


「わたし、帰ります……」


「あ、そう」


 この静寂にいたたまれなくなったのか、なんなのか。別にそんなこと言わなくても勝手に出ていけばいいのに、彼女は俺にそう言い残して踵を返した。


 だが、ふと俺は思う。

 ここで、彼女をこのまま帰してしまっても良いのか。

 俺は、俺から彼女に話しかけたのだ。話しかけてしまった。所謂、というやつだ。俺から結んだえんだ。それなりの責任は取らねばなるまい。

 縁って信じるか? 俺は信じているさ。ここで引っかかる程度にはな。

 いや、信じるとかじゃなくて、だしな。


 だから、俺は屋上の出入口の扉を開ける彼女に、もう一度話しかけたのだ。


「あ、おい!」


「……はい?」


「…………………」


「……え、なんです?」


 振り向いて怪訝そうな顔をした彼女を前に、俺は悩んだ。話しかけたはいいが、特に内容なんて考えて無かったのだ。アホすぎる。


 言いたいことはいくつかある。だが、さて、それは本当に口に出していいものなのかどうか。


 だからだろう。とても抽象的なことを言ってしまった。


「なぁ、お前さぁ、もし、もしもの話だぜ。俺はお前じゃないからお前のことなんか分かんねー。その上に初対面だ。お前のことなんかサッパリなんにも知らねぇ。だが、もしだ。五億回ぐらい仮定の表現を頭に据え置いたとしてだな。お前、高い所に来たかったなら、明日もここに来いよな」


 きっと分かっているだろう。俺が何を察して、何を言っているのか。


「高い所って良いよなぁ。『人がゴミのようだ!』ってな、言いたくなっちまうのも仕方ねぇくらいだ。いつでもいいぜ。俺はいつでも、ここにいる。実は、ここにいても誰も来なくてなぁ、話し相手がいなかったんだよ。もしアンタが俺の暇つぶし相手になってくれりゃ、そりゃ結構楽しいかも知れねーな」


 なんて、気障ったく、思いっきり演技がかった風に言った。


 そんな言葉に、たったこれっぽっちの誰でも言えるような言葉に、彼女は少し泣きそうな顔をして、


「はい……」


 とだけ言って、帰っていった。


 夜風が、ヒュウとないた夜だった。




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 さて、見知らぬ女子学生にイタい言葉を投げかけてた翌日の夜。今日も今日とて、俺は柵の外側で寝転がっていた。

 あんなことは言ったものの、『あの子、もう来ねーんだろうな』なんて思っていた訳だが。


「おぅ、まさか、マジで来るとは思ってなかったわ」


「……いいじゃないですか。わたしだって暇だったんです」


 とは、彼女の言葉。

 それから、ようやく彼女に名乗ってもらったのだが、名前を浅田あさだ 瑞羽みずはと言うらしい。ほぉん。普通だな。


 ちなみに俺は名乗ってない。理由は……、うん、まぁ、とにかく教えたくなかったんだよ。


「なぁー、お前、浅田さぁ、高校生?」


「いえ、中学生です。3年です」


「へぇ、そう。なんか学校で面白い話とかねーの?」


「いえ、特には」


「あ、そう」


 その日、名前のこと以外で何か話したことといえばそのくらいだ。

 あとは静かな風が穏やかに流れるだけだった。


「あ、じゃあそろそろわたしは帰るので」


「おーぅ、じゃーな」


 本当に、その日に交わした言葉はそれだけだった。




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 さらに次の夜も、懲りずに彼女はやってきた。暇なのかコイツは。


「よぉ、浅田。お前、こんな夜に出歩いてていいのかよ」


「ダメですよそりゃ。バレたら補導されちゃいますね」


「……いや、危ねぇから来るなら昼にしろよな」


「まぁいいじゃないですか。バレなきゃいいんですよ」


「おぉ、こわいこわい」


 不良少女め。危ないって、そういう問題じゃねぇんだぞ。


「こんなんでもわたし、学校では真面目だって評価なんですよ」


「学校以外で真面目じゃなかったら結局不真面目じゃねーか」


 しかも自分の不真面目さをそうやって大人に隠すタイプ。外面だけはやけに良い、敵に回したら厄介なやつだ。


「ていうかおじさん」


「おじさん言うな普通にお兄さんだ。二十代なんだぞ」


「……じゃあ名前教えて下さいよ」


「んー? じゃあタマキって呼んで」


「はなしのながれから察するに明らかな偽名」


「クク、いいじゃねぇの。名前は嘘偽りなく名乗るべき大事なモンだが、大事だからこそ隠すってこともあるぜ」


「よく分かんないこと言わないで下さいよ」


「お前こそ、なァに言ってやがんだ。俺は誰でも知ってる簡単なことを言ってんだぜ」


 眉をひそめて首を傾げる浅田に、俺はニッと笑った。

 名前は、普通は本当の名前を教えるものだ。それが初対面だろうと、クソ気に食わねぇ奴だろうと。それは名前を偽るのは失礼な事だと知っているからだ。特別な理由がないなら、名前なんて偽るものじゃない。

 だが、たまに名前を偽るべき特殊な事例がある。名前を教える事で相手が不幸になるような情報を与えてしまったり、混乱を招くことだってあるんだ。あるいは、自己防衛の為に偽名を名乗ることだってある。


「ま、いつか分かるさ。ほら、偽名を名乗ってくるライバルキャラが主人公の力量を認めた時に本名を教えてくれる的な」


「ありそうでなさそうなすごい微妙な例えやめてもらっていいですか」


 俺はケラケラと笑って、彼女を茶化す。


 今日の会話は、それで終わった。




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「よぉ、浅田。お前さぁ、なんか面白ぇ話とかねぇの?」


「まぁまぁな無茶振りですね」


 その日は、そんな言葉から話が始まった。

 彼女は俺の超絶アバウトな質問に眉をひそめて、うんうんと悩み出す。何か応えようとはしているらしい。


「あ、最近ですね、通学路にネコがいましてね。可愛いんですよ」


「へぇ〜、そう。好きなの?」


「ええ。タマキさんはネコ、好きですか?」


「あー、すまん。いや、本当に、大変、誠に申し訳ない話なんだが、猫は俺の嫌いな生物ランキングで堂々の第三位だ」


「そうですか……、残念です」


 浅田は俺が猫嫌いだと聞いて、見るからにしゅんとしてしまった。どうやら、猫が嫌いとは思ってなかったらしい。まぁ、俺も自分以外に猫嫌いな奴を見たことがないので、仕方のないことか。

 ううむ、それにしても失敗してしまったか。まさかここまでショックを受けるとは。もっとオブラートに包んだ表現をすれば良かっただろうか。だが、事実は事実だしなぁ。


「ってか、タマキさん。それ一位と二位がめっちゃ気になるやつじゃないですか」


「立ち直り早いな」


 嘘だ。次の瞬間にはケロッと普通の顔してやがった。俺の心配返せ。


「いえ、嫌いなのは仕方ないですよ。人の好き嫌いに口出しするもんじゃないです。理由くらいは聞いてみたいですけどね」


「そうかい。うむ。ならば聞かせてしんぜよう。嫌いな生物ランキング一位と二位と、俺が猫嫌いな理由、どれからにするか選びたまへ」


「じゃ、ネコ嫌いな理由から」


「うむ。よかろうではないか」


「あ、その喋り方はウザいんでやめてください」


「……はい」


 そこで、一息。


「俺の家の周りに汚ぇ野良猫ばっか住み着いてて、敷地内にフンして出ていきやがるから猫が嫌いになった」


「思ったより実害ある理由で納得しちゃったのが、ネコ好きとして悔しいです」


「だろ? はい次」


「じゃあ嫌いな生物ランキング二位とその理由を」


「犬だ。特にチワワ。うるさいし鬱陶しい。吠えられるのがヤダ。あと小さい頃に野良犬に追いかけられたのがトラウマで怖くて近づけない」


「素直な理由ですね。ってか、イヌもネコも駄目とか世界がタマキさんに厳しすぎません? ろくに散歩もできないじゃないですか」


「そう。だから散歩中に犬猫を見たらUターンか大回りするんだよ」


「悲し。じゃあ最後、一位とその理由を教えてください」


 俺は、そこで少しだけその質問に答えるべきか考えた。しかし自分が言い出したことだ。答えなければ不誠実というもの。


「一位は……、人間だ」


「…………そうですか」


 その日の会話はそれで終わってしまった。

 理由は話さなかった。




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「タマキさんタマキさん、どうして貴方はいつも柵の外側にいるんですか?」


 その日、彼女は開口一番にそう言った。


「あぁん? そんなん聞かれてもな……」


 むむ、と、眉間にシワが寄る感覚。率直に困ってしまったな。


「あ、その反応、『理由なんざねぇよ』って言わないってことは、理由はちゃんとあるんですね」


 見透かされたその言葉に、むむむ、と、更に眉間に力がこもった。

 彼女の言う通り、理由はある。じゃなきゃ、高い所が嫌いなのに屋上になんかいない。だが、これはちょっと言いたくないな。恥ずかしいし。

 さて、どうやって誤魔化そうか。


「んぁー、理由、理由ねぇ。うぅむ……、あんま喋りたくないんだが。俺が話すなら、浅田がここに来た理由も聞いていいかね?」


「んぁー、嫌ですねぇ」


「口調真似てくるなよ」


 ちょっと可愛かった。俺がやったら胡散臭いだけなのに。


「まぁ、冗談は置いといて。確かに、私もここに来た理由はあんまり喋りたくないかもです。では、この件はお互い触れない方向で」


「おう。それがいい」


 いずれ、話す時は来るだろうけども。

 どうかそれまでは、束の間のぬるま湯に浸りたいのだ。

 きっとそれは自分も彼女も思っていること。話してしまえば、今のラフで適当な関係が固くなってしまうのは嫌だ。


 こんな、微睡むように何も考えずに過ぎ去って行く日々が、永遠に続けばいいのに。


 だが、世界はそれを、許さない。




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 それからも、俺と浅田瑞羽の緩やかな関係は続いた。


 彼女が屋上に来るのは決まって夜。何度も昼に来いとは言ったのだが、一向に訪問時間を帰る気配がない。来てから一時間かそこらも経てばすぐに帰ってしまうが、その一時間は少なくとも俺にとってはかけがえのないものとなっていた。

 この一時間が、彼女にとっても大切な時間になっていると嬉しい。


 残念ながら俺はずっと柵の外側にるので彼女と触れ合ったことはないが、きっと彼女の手はその心のように暖かく、柔らかいのだろう。

 どうか、俺がその手に、と、強く願う。

 きっと彼女の心は、この世界で生きるには優しすぎるだろうから。


 気がつけば俺は彼女のことを名前で呼んでいたし、彼女もそれを悪く思っていないように感じる。その程度には親交が深まったのだと思いたい。


 それは間違いなく、『幸せ』というものだ。

 何も、何も考えない。未来のことなんかどうでも良くて、ただひたすら過去と今と君についてを語り合う。感じたことを口にして、思ったことを言ってみる。すると君はただ君らしい態度で笑ったりシケた表情になったりするんだ


 そんなぬるい安寧が永く続くわけがなかった。

 永遠の停滞を望むには世界は厳しくて。過去の記憶に留まる為には、あるかも分からない未来が邪魔をする。


 そして、やはりどこまで逃げても、現実は理不尽で残酷な仕打ちを仕掛けてくるのだ。




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「タマキさん……」


 声が、濡れていた。

 金網の向こうに見た彼女は最初に会った時のように震えていて、だがその潤んだ瞳は助けを乞うようにこちらを突き刺す。


「……どっ、……どう、した?」


 動揺して、言葉が出なかった。


 彼女はフラフラとよろめきながらもこちら側に近づいてきて、俺の目の前の金網で編まれた柵をガシリと掴んだ。ギリギリと金網が悲鳴をあげている。


「私、夢が……」


「…………」


 何かを必死に伝えようとする彼女の吐息は途切れ途切れで、つらい。


「……笑っちゃうような、小さい頃から見てた夢があったんです」


「……………………」


「『しあわせな家族を作りたい』なんて、子供みたいな、そんな感じの、ですね……」


「…………あぁ」


「でも、夢だったんですよ……。優しい家族を作るのが」


 それは、決して幼稚な願いなどではない。きっと誰もがそう思う。ただ一人の少女が幸せを想うことを、『そんなくだらない願いは忘れろ』と切り捨てられる者がどこにいようか。


 それでも夢を語るのは恥ずかしいことだし、何かきっかけがないと語ることじゃない。

 そして、そのきっかけとは。


「でも、私……もう、それ、無理……」


 彼女の声がこれまでになく震えている。膝から崩れ落ちて、手で顔を覆っている。

 だが、そんな彼女を前にしても、俺は柵のこちら側から眺めることしか出来ない。『どうして』『何があった』などと聞くことも出来ずにいた。


 ぐすぐすとすすり泣く音が、痛いほど心に響くのに、俺は何もせずにただただここに突っ立っているだけだ。それが酷く悔しいし、情けない。


 彼女が今、どんな言葉を望んでいるのかも分からない。慰めて欲しいのか、励まして欲しいのか、同調して欲しいのか、あるいはただそばにいて欲しいだけなのか。


 何をするべきかすらも、判断がつかない。


 彼女に何があって、それがどれほど大きな傷で、どうして『しあわせな家族』という夢を諦めたのか。


 そこで俺は、ふと彼女と会って三日目の会話を、少しだけ思い出した。


 ……あぁ、クソ。なんてことだ。まさか、まさか、まさか。そんなことがあっていいのか!

 このビルは少し狭い路地に面していて、その路地は暗い。ガラの悪い連中がたむろしていてもおかしくないし、例えばの話だが、もし、仮に、そこにこんな少女が通りかかってしまったなら。もし、もし彼女がそんな奴らの目についてしまったなら!


『しあわせな家族』って、あぁ、そういう事か。可愛いじゃねぇかよ。それを、もう、諦めちまうって……? そんな、ささやかな願いすら、捨てちまうって……?


 あの時の自分を締め殺してしまいたい気分だ。もっと強く注意をしていれば、真剣に彼女の心配をしていれば。


 俺が、『またここに来てくれ』なんて言わなければ────。


 もしかしたら、彼女にこんな辛い気持ちをさせないで良かったのかもしれない。


 あるいは、初めて会ったときに話しかけなければ。

 彼女はこの悲運を経験することなくいたのかも知れない。

 そもそも、俺にそれをとめる権利などなかったのだ。俺は既に過去の人間で、全てを捨て去ってしまったのだ。どうしてこの俺が、俺ごときが、その決意を阻むことができようか。


 いや、いいや、まだそうと決まったわけではない。彼女は何も語っていない。これは俺の勝手な妄想だ。そうに決まってる。

 どうか、そうであってくれ。


「…………タマキさん……」


「……あぁ…………」


 彼女が近い。これまでになく近い。相変わらず柵を隔てた彼女が、今までのどんなときよりも近い。

 距離が、とか、体が、とかじゃなくて、

 きっとそれはチープな恋愛物語なら愛の証的なサムシングだが、こと俺に限って言えばそれは違う。

 間違いなく最悪の事態であり、同時に俺のクソッタレな妄想が真実であることの裏付けだ。


「……たすけて……」


「────………………」


 小さな、悲痛な、そして泣きたくなるような叫び声だった。あぁ、そうさ。俺には分かる。分かってしまう。俺は本来はであって、心が繋がるのはその手段の一種だ。だからこそ、その言葉にどれほど大きな想いが込められているのかも分かるんだ。


「────なぁ、瑞羽」


「…………ぁい。なんで、しょう」


「話をしようぜ。話題は……、おう、そうだな、この先あるかも分かんねぇ未来について、なんてどうだよ?」


 だから、精一杯考えても、俺に出来ることはそれくらいの事だった。いつものように、語り合うことだけだった。


「俺はなぁ……、瑞羽。浅田瑞羽よ。俺は、その見えない未来が怖くなっちまって、そんなモンいらねぇって、捨てちまったんだ。だから、お前が聞かせてくれねぇか。お前の、未来を」


「未来、ですか……」


 俺は、ただ生きるのが怖くなっただけの臆病者だ。

 俺に『生』を語る権利はない。


 その権利があるのは、今を生きているお前だ。


 そして同時に、未来を捨てた俺には、ここに残ってしまった俺には、『生』を聞き届ける義務があるんだ。


 お前しかいない。世界でただ一人、俺に『生』を語ることが出来るのは、ここにいるお前しかいない。


 なぜって、お前は今、ここにたった一人で立っているのだから!


「わたしは……。わたしの、未来は……」


「おう」


 さぁ、語れ。どんな恥ずかしいことも語れ。

 ここには誰もいない。お前しかいない。


 それでも俺は、聞いているぞ。



「……優しくて、しあわせな家族になっているんです……」



 嗚咽の合間に、確かに聞こえた。


「そうか。それがお前の未来か」


「はい。わたしの、夢に描く……」


「なら、浅田瑞羽。


 俺は、そう、いつものようにニヤリと笑う。


「お前、まだ諦めたくねぇんだろ。なら、まだだ。諦めたくねぇってことは、諦めてねぇってことだ!」


「…………で、でも」


「いいや! お前は、まだ終わっちゃいけねえぞ!」


 ガシャン、俺は柵に飛びつき、握りしめる。ガシャガシャと揺する。ここに柵があるのを彼女に思い出させるように。これを絶対的な隔たりであると、思い出させるように。


 全部を諦めた俺が言うんだから間違いない。

 お前は、確かに未来を語った。

『諦めたくない』って気持ちは、それこそがまだ諦めてないって証拠なんだ!


 俺がここにいるのは、なんとなくだ。なんとなく、もういいやって呟いてここに来たんだ。そんな俺が、本当に辛い思いをしてる奴にこう言うのは間違ってるか? あぁ、いや、いいさ。間違っててもいい。それで今この瞬間の彼女が踏ん張れるならそれでいい。


 死は、最も容易な救いだ。同時に、最も忌わしい呪いだ。俺が実際にここにいる事がその証拠だ。あれから俺は何も恐れることがなく、変わることもなく、そして終わることもない。


 だから、現状、そのぬるま湯が彼女にとって一番確実な救いであることも分かってる。


 彼女がなんとなく俺の存在に気づいてて、彼女が俺のどんな言葉を待っているのかも気づいてる。


 それでも、俺は彼女に柵を越えさせるわけにはいかない。

 彼女は、きっとまだ別の救いがある。俺はクソほど無責任な言葉を言ってでも、彼女が求める救済を『それはまだ許されないことだ』と、うち払わなければならない。


 そして、彼女の心を本当に救うことすらも、俺は別の誰かに託すしかない。


 だからどうか、今は、今だけは俺の言葉に騙されていてくれ。


「なぁ、俺はお前を知ってるぜ。お前は強くて、優しい奴だよ」


「…………」


「できるぜ、『しあわせな家族』」


「……本当、ですかね……?」


「あぁ。お前の心を唯一知ってる、この俺が断言してやる。お前ならできる。俺にできなかったことが、お前なら」


「……そうだと、いいですね」


「いや、そうなんだよ」


「……はい」


「あぁ」


「じゃあ」


「あぁ」


「さようなら」


 力のない足で立ち上がり、屋上出入口に振り返る。

 バタン、と、彼女は扉の向こうに進む。


 俺は、ただ、柵のこちら側から彼女の精一杯の強がりを見送った。




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 懐かしい建物だった。

 この街で一番高かったビルだ。

 その屋上に、私は立っている。


 私はずっと前に、この屋上に入り浸っていた。


 あぁ、そうだ。彼はずっとあの柵の向こう側に寝転がっていた。誰かは覚えていないし、きっと誰もいなかった。でも確かに彼はそこにいた。


 今の私は、あの時と比べて色々知っている。

 ここである男性が飛び降り自殺をしたことだって知っている。

 彼が、本来は私を引きずり込む悪い存在だということも知っている。

 あの時の彼が、私が死にたがっていることに気づいていた事も知っている。



 そして、彼が優しかったことも知っている。



 私はあの時、本当に死にたかった。彼なら、私を楽に殺してくれると思った。だが、彼はその全てを見越した上で、私の救いを否定した。


 最初も、私は死にたくてここに来たんだ。

 最初に彼が声をかけてきたのは、彼の良心だけではなく、引きずり込む存在の本能ゆえもあっただろう。あるいは、彼の存在があったがために、死にたかった私はここに引き寄せられたのかも知らない。そして私が経験した忌まわしい過去ですら、彼の『引き摺り込む者』という性質が起こしたことであるかもしれない。いずれにせよ、真相は闇の中だ。


 だが、彼以降、ここで飛び降り自殺が起こっていないのは、きっとまだ、何かがここにいるからだ。


 彼と私が分かり合うことはないだろう。

 彼は諦めた者で、所詮は向こう側の人。


「ねぇ……、玉木たまきさん。あれ、本名だったんですね」


 私には、もう彼を見ることが出来ない。

 その変化が、とても嬉しい。それはきっと、私の心が向こう側に傾くことがない証拠だから。


 だから、彼に聞こえるように願って。


「私、しあわせな家族ができましたよ」


 そうして、左手を柵のすぐ向こう側、少し下に向けてかざした。

 強がりは私の得意分野だ。まだ完全に癒えていない傷も、一生褪せない死にたかった頃の記憶も、彼の前なら全部我慢できる。涙を零さないでいれる。


 彼の前で、笑っていられる。



『…………おぅ、おめでとさん』



 なんて、きっと彼はそう言って、私に向かってニヤリと笑うのだ。

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柵の向こう側の住人 aninoi @akimasa894

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