Ne.18『女将! お話があります』
佐原「女将! お話があります」
根岸「板長……、まあ来るとは思っていたよ。座りな」
佐原「いえ、ここで。……自分は、この老舗旅館を潰したくはありません。自分が生まれるより前からこの街で旅の客を癒してきたこの温泉宿……、今でこそ苦境ですが、ここを乗り切ればまだ道はあるはずです」
根岸「……」
佐原「どうか、宿を畳む考えを、改めていただけないかと……」
根岸「……」
佐原「お願いします!」
根岸「頭を上げな」
佐原「……」
根岸「あんたはまだ若い。ここでなくてもやっていけるだろう。だがね、この旅館も、私も、歳をとりすぎた。……そこへきてこの不況。潮時なんだろうね」
佐原「しかし女将!」
根岸「板長」
佐原「はい……」
根岸「旦那だ」
佐原「……」
根岸「私は女将じゃあない。女装してるだけの、旦那」
佐原「ややこしい」
根岸「和服が好きなんだよ。あと女将の仕事も」
佐原「もう女将でいいじゃないですか」
根岸「男の私が、女将だとおかしいだろう!」
佐原「女装して女将の仕事してる旦那が既におかしいのに!」
根岸「女将が好きなんだよ。……あんた、口には気をつけな。昔の私ならその一言で追い出してたよ」
佐原「す、すみません!」
根岸「……丸くなっちまったんだよ」
佐原「……」
根岸「前はもっと、仕事に熱を持ってた。それがどうだ、今は落ち着いちまって。これじゃあ後進も育たないわけだよ」
佐原「しかし女将」
根岸「旦那」
佐原「育たなかったのは、旦那か女将かどっちかわからないからでは」
根岸「それぞれ育てるべきだったかね」
佐原「……」
根岸「ま、もう休もうかとね。いいんだよもう」
佐原「そんな……」
根岸「というわけだ板長、私は考えを変えるつもりはないよ。さがんな」
佐原「しかし女将!」
根岸「旦那」
佐原「しかし旦那!」
根岸「板長。あんたの料理を私は食べたことはなかったが、客は気に入ってたみたいじゃないか。大丈夫、あんたならどこでもやっていけるから……」
佐原「おにぎりしか……、おにぎりしか作れなかった自分を育ててくれたのは女将です!」
根岸「旦那」
佐原「おにぎりしか作れない板長として、自分はここまでやってこれました。これも全て、女将の――」
根岸「板長。いいんだ。いいんだよもう」
佐原「……頭を下げるだけで女将の考えが変わるとは思っていません。ですから……、自分のできる最高の料理を作ってきました」
根岸「……」
佐原「この料理で、この宿で、またたくさんお客さんを呼んで、みんなでやっていきたいんです! だから見てください! 自分の料理を!」
根岸「……」
佐原「女将!」
根岸「旦那」
佐原「是非!」
根岸「……持ってきな」
佐原「有難うございます!」
根岸「……丸くなったもんだね、私も。昔は鬼の女装旦那女将とか呼ばれたこともあったってのに……。あのときは従業員が半分になったね……縦に」
佐原「女将。準備ができました」
根岸「早いね」
佐原「……」
根岸「……板長自ら配膳するなんて、はじめてじゃないのかい?」
佐原「この宿のためなら、なんだってしますよ」
根岸「……」
佐原「どうぞ」
根岸「……」
佐原「自分の全力です」
根岸「……お、……おお!?」
佐原「季節の魚介類を余すとこなく使い、見た目にも上品さを意識した懐石です。特にこのあとお持ちする天ぷらと釜飯が――」
根岸「おにっ、おにぎりやん! まぁるい、おにぎりやぁぁぁぁん!」
佐原「自分はおにぎりしか作れません!」
根岸「懐石料理は!?」
佐原「こちらが前菜の――」
根岸「おにぎりやぁぁぁぁん! おーにぎーりやぁぁぁぁぁん!」
佐原「いえ見た目こそおにぎりですが!」
根岸「見た目におにぎりならおにぎりだよ! え、ちょっと待って、板長!」
佐原「はい」
根岸「料理のことはあんたに任せてきたね?」
佐原「はい、腕によりをかけた料理を、季節の食材を吟味するところから手を抜かず――」
根岸「え、これは?」
佐原「あ、こちらは食前酒の――」
根岸「おにぎりやぁぁぁぁぁぁん! 食前酒っていうか液体ですらない!」
佐原「日本酒の原料は米でありまして」
根岸「そのまま米持ってくんなや! ちょっと待て、ちょっと待て、普段の料理はちゃんと料理してたんだろうね?」
佐原「もちろんです」
根岸「ならよかった」
佐原「全て料理は純国産米で優しく包み職人が匠の技にておにぎりに」
根岸「おにぎりやぁぁぁぁぁぁぁん!」
佐原「まあ食べてみてください」
根岸「全ての小皿におにぎりが乗っている……」
佐原「どうぞ」
根岸「ぱくり。……中からお酒が」
佐原「季節の食前酒にございます。今日は気温も高くなく、また今年のぶどうの出来がよかったため――」
根岸「……」
佐原「こちら、鮮魚の盛り合わせでございます」
根岸「おにぎりやぁぁぁん……」
佐原「ええ、盛りつけもまた、料理です。いい料理はまず目で食すものであり――」
根岸「おにぎりやぁぁぁぁぁぁん! ああうんそうだね、全部丸いおにぎりだね!」
佐原「今の私の、全てを注ぎ込んだ料理です」
根岸「ネットでの評価コメントにやたらおにぎりおにぎり書いてあったのはそういうことだったのか……」
佐原「お客様からの評判もいいらしいと」
根岸「ああまあそうだね、料理に対して文句を聞いたことはないよ。むしろお客さんは褒めてたね」
佐原「……」
根岸「……」
佐原「女将、なぜスマホを」
根岸「いやちょっとうちのホームページを確認……」
佐原「……」
根岸「お、おお……」
佐原「いかがしました」
根岸「おにぎりやぁぁぁぁぁぁん! 料理の、メニューの写真が!」
佐原「おにぎりしか作れなかった自分を、ここまで育てていただいたことに自分は感謝しております」
根岸「ああ、これ見て客が来るなら文句言うわけはないんだね……。そうか、そうかぁ……」
佐原「……どうか、宿を畳むなどと言わないでください。お願いします!」
根岸「……」
佐原「……」
根岸「……はぁ」
佐原「……」
根岸「丸くなったもんだね」
佐原「あ、はい、そうです今まで三角形のおにぎりしか握れなかったのですがついに――」
閉幕
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。