僕らのヴァロシャイム聖戦
花田 神楽
1‐1 プリーシンクト
コゥ……コゥ……
息をするたびに、ガスマスクから静かに音が漏れる。辺りは一面の濃い霧。どこまでも、鈍色を帯びて広がっていた。なめかしいとさえ感じる美しさだが、その正体は、有毒なガス等を含む瘴気。文学者が表現するなら、美しき殺人者、といったところか。
瘴気は長年排出され続けた結果、今や世界中で蔓延している。その濃度は、ガスマスクを使わないと死に至るほどだと聞いた。
角を曲がる。ぼやけながらも電灯に照らされて、白い幾つかの建物が浮かび上がってきた。目的地、プリーシンクト研究所。
正式には、瘴気物理学研究所という。原因も性質も有効な対策も、すべてが謎に包まれていた瘴気を、いち早く研究し始めたところだ。今ではその確かな実績が功を奏して、人々からは最後の砦、聖域―プリーシンクトと呼ばれている。
「ここか」
目の前にすると、天に突き抜けるような高さがあった。時のせいか瘴気のせいか、白かったであろうビルの壁は、クリーム色になってしまっている。
この扉の先、このビルの中では、何が待ち受けているのだろう。期待というよりは、妙に冷え冷えとした胸の痛みを抱えて、チハルはガラス扉を押し開けた。
「希望者ってだれ~?」
近代的なロビーに似合わず、幼稚な声を上げてその人はやって来た。
「初めまして、私はミオコ。パイロット管理担当職員よ。一人しかいないから、結構大変なのよね。ま、よろしく」
「初めまして、チハルです。お願いします」
お互いに手を取り合う。ミオコは赤いパーカーを着、長髪を緩く束ねていた。カジュアルな服装からは、プリーシンクトなんていう、秀才ぞろいの職に就いているとは思えなかった。それは口調にも表れていて、
「じゃあチハル。早速だけど、いろいろ確認してくね」
と、始めから呼び捨てにされた。少しだけぎょっとなりながらも、しっかり頷く。
「チハル、十四歳。六年前に両親を事故で亡くす。今回は自殺を望み、ヴァロ運用計画に同意。志望はパイロット。あってる?」
「はい」
「へぇ、自殺志願か。珍しい理由ね」
思った以上に薄い反応だった。しかし、まあそんなものかと納得する。
自殺なんて、世間からすればひねくれた考えに見えるかもしれない。けれどプリーシンクトでは、命を捨てて世界を救うのが、共通の認識だと聞いた。ここの人たちにとって、死とはそれほどに近しい存在なのかもしれない。
ふと顎に手を当てて、考え込むミオコ。少し経って言う。
「いきなりだけど、ちょっと来て」
「あっ、はい」
ぐんぐん進んでいく背を、慌てて追う。
リノリウムの渡り廊下をしばらく歩いてからようやく、気付いたようにチハルを振り返る。
「これから行くのは、新型ヴァロシャイム管理棟なの。ついこの間テスト運用も終わって、実戦を今か今かと待ってるところでね。せっかく来たんだから、見せてあげたいなぁと思って。あ、ここ上」
エレベーターに入る。他と同様、装飾など一切ない。音もなく扉が閉まった。
扉の両サイドにずらりと並んだ、階数表示のパネルをいじる。ミオコの小さな背中に隠れて、よくは見えなかったけれど、いくつかのボタンを同時押していた気がする。かなり特殊なエリアに、向かっているらしい。
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