アメリカン・アンド・ロシアン・ルーレット

姐三

プロローグ キャロルの冬

キャロルの冬

 マンハッタン――これを耳にすると、ほとんどの人間がアメリカを思い浮かべることだろう。

 確かに、マンハッタンはアメリカにある。少なくとも、間違いではない。

 だが、バーにもマンハッタンはある。イアン・グウィンはマンハッタンと耳にすると、カクテルの女王を思い浮かべる。

 マンハッタンの標準的なレシピは、ライ・ウイスキー、スイート・ベルモット、アンゴスチュラ・ビターズ。忘れてはならないのは、マラスキーノ・チェリーの装飾。

 諸説あるが、マンハッタンの由来はその名の通りニューヨークのマンハッタンに落ちる夕日をイメージしたとされている。

 イアンはマンハッタンを好んで飲む。正確には、ライ・ウイスキーをブランデーで代用したキャロルを。

 イアンにはキャロルへのこだわりがある。重要視するのは分量だ。ブランデーとスイート・ベルモットを二対一、アンゴスチュラ・ビターズを三ダッシュ。それから、マラスキーノ・チェリーを食べるタイミングだ。彼はキャロルを飲む前にマラスキーノ・チェリーを口にする。そうするとマラスキーノ・チェリーの甘さが口内に広がり、キャロルの味をうまい具合に引き立てるのだ。

 イアンは溶けかけた飴でも舐めるように舌でマラスキーノ・チェリーを転がしていた。

 鮮紅色の果肉に染み込んだシロップの甘味とアルコールの風味が舌の味蕾一つ一つに浸透する。種なしのマラスキーノ・チェリーを奥歯で噛み潰す。溢れ出した果汁が一層甘美なコーティングを舌に施す。

 これでキャロルの味を至高のものにする準備が整った。あとはゆっくりと少しずつ嗜みながら飲めばいい。

 憂鬱な溜め息を吐き、イアンはキャロルを一口含んだ。

 マンハッタンは死んだ。いや、マンハッタンに限らず世界は死につつある。

 アメリカとロシアの戦争でマンハッタンは完全に破壊された。アメリカ軍とロシア軍の戦力がぶつかり合い、その火の粉は飛散して世界中が戦禍を被った。

 別にマンハッタンに思い入れはない。マンハッタンが破壊されようと何も感じなかった。これまで破壊の限りを尽くしてきたのだ、もはや破壊されることにも慣れてしまった。

 それでも、アメリカ人としてのプライドは残っているもので、破壊されたマンハッタンが脳内をちらつくと陰鬱な気分になる。カクテルの女王はこんなにも美しいというのに、と奇妙なノスタルジーに駆られる。

 アメリカ陸軍を退役する直前――つまり、一年前。瓦礫の山と化したマンハッタンでロシア軍と戦った。

 既に破壊されたマンハッタンは絶好の戦場となり、ロシア軍はもちろんのことアメリカ軍も遠慮なく爆薬や戦車や爆撃機を用いて死んだ街をさらに殺した。

 戦争はイアンの一部を奪い取っていった。比喩でも誇張でもなく、彼は一部を失った。

 左目は失明して眼帯をつけている。右脚には義脚をつけている。

 マンハッタンの瓦礫の糧になったものと思っていたが、意識が覚醒すると病院のかび臭いベッドの上に横たわっていた。いっそのことマンハッタンで死にたかった。

 戦争は身体の一部のみならず心の一部をも抉り取っていった。

 そもそもイアンがアメリカ陸軍に志願したのは家族のためだった。戦場で死んだ二人の兄と同じように、家族を守るために兵士となった。

 イアンが兵士となったのは十五歳の時――つまり、現在からちょうど十年前だ。当時は父、母、三人の弟、二人の妹とフィラデルフィアに住んでいた。

 二人の兄が戦死しているため、家族は兵士になることを猛反対した。二人の兄と同じ道を歩むな、としつこく説得を試みられたが、イアンはそれを押し切って家を出た。彼は二人の兄と同じ道を辿るのも悪くないと思っていた。

 兵士となって七年が経過し、イアンはデトロイトで戦っていた。その間にフィラデルフィアが爆撃されて、あっけなく家族は殺された。それから間もなくして親友がデトロイトでKIAとなり、彼は孤独になった。

 マンハッタンで死にかけてから、イアンはフィラデルフィアから逃げるようにしてロサンゼルスに引っ越した。そして、現在に至るというわけだ。

 家族を守るために兵士となったが、皮肉にも兵士となったばかりにグウィン家で唯一生き残ってしまった。これでは本末転倒だ。幸か不幸か、二人の兄と同じ道を辿ることはなかった。

 キャロルが血液であるという錯覚に陥り、吐き気を催した。吐き気をキャロルで押し戻し、一息吐くと煙草を吸いたくなった。

 トレンチコートの懐からくしゃくしゃになった箱を取り出す。最後の一本を咥えてガスライターの火を灯す。紫煙が蛇のようにくゆり、天井に吸い込まれてやがて消える。

 左目と右脚を失い、退役を余儀なくされたイアンは居場所さえも失った。孤独のうちについには生きる意味を失った。

 ロサンゼルスのバーにいても生きている心地がしない。兵士だった頃は溌溂としていたが、退役したらこれだ。心臓が鼓動していても生きているとは言い難い。生きながら死んでいる、といったところか。

 何度も自殺しようとした。数多の人間を殺した銃で脳を撃ち抜こうとした。

 だが、できなかった。砕けた頭蓋骨と脳漿がぶちまけられる瞬間を想像すると、トリガーにかけた指が震えてどうにも引くことができなかった。敵を殺すのは一瞬の躊躇もいらなかったというのに、いざ己を殺そうとすると案外できないものであった。

 イアンはキャロルを飲み干した。一刻も早く酔わなければならなかった。さもなければここでこめかみに銃を突きつけてバーを騒がせてしまうかもしれなかった。まあ、どうせ死ねはしないだろうが。


「マスター、キャロルのお代わりを」


 煙草が短くなり、空の箱を指で漁る。指は虚空を彷徨い、何も掴めずに箱から這い出る。舌打ちを一つ。いら立ち紛れに貧乏揺すりをする。

 二杯目のキャロルを一気に呷り、イアンは三杯目のキャロルを注文した。

 酔いはまだ回らない。意識をまどろませるにはあと三杯は飲まなければならない。

 イアンはカウンターの上に地図を広げた。

 イタリアのシチリア島――イアンはここに旅行するつもりだった。とにもかくにも、一度アメリカから離れて生活してみたかった。

 アメリカには悪夢が眠っている。昼は虚無感に苛まれて、夜になれば悪夢にうなされる。イアンは悪夢をアメリカのせいにしている。

 イアンがシチリア島に旅行しようと思った理由は単純だ。死んだ親友の故郷がシチリア島だったというくらいだ。アメリカの悪夢から逃れられるのならそれでよかった。

 もう戦場には戻れない。この身体では戻りたくても戻れない。ろくに歩くこともできないのだ、戦場に立てば格好の的だ。それに、現在のアメリカに戦場はない。イアンが退役した後、アメリカとロシアは休戦協定を結んだのだ。

 休戦協定といってもほんの一時的なもので、これまでにも何度か締結しているが、あくまで互いに戦力の補給を行うための期間に過ぎない。この戦争は決着がつくまで終わらない。

 三杯目のキャロルでようやく酔いが回ってきた。意識が混濁するまで飲むつもりだったが、旅立ちに備えて今夜は大人しく眠ることにした。

 地図を折り畳んで懐にしまい、イアンは煙草を買いに行った。

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