I-CE-AGE
緑茶
前編
静かな荒廃が閉じ込められた永遠の冬の町に、大きな湖がありました。そこには島がぽっかりと浮かんでおり、古いお城がありました。
その城にもまた、空と同じ色で、空と町と同じ静謐さがあり、動くことのない凍りついた時間が溢れていました。
豆粒のように小さな男の子と、すらりとしたのっぽの女の子が今、そこに住んでいます。
豆粒は人間で、すらりはロボットです。どこから得た知識なのかはまるでわかりませんが、彼らはそれを知っているのです。
今までも、そしてこれからも。ずっと、ずうっと。近くて遠い二人は、こうしてずっと一緒にいるのです。
半透明の蔦が荒れ果てた四角に絡み合って出来ている城のなかで、すらりは吹き抜けの灰の空を見つつ、足をふらつかせながら手に持った棒のようなもので周りに散らばり、なかば地面と同化しているガラクタを叩き、壊してまわっています。これは彼女の、朝の日課でもあります。
そのガラクタ類を形成している幾何学模様――既にくたびれ、元の面影とはかけ離れているであろうものの――は、かつてこの場所に何者かが住んでいたことを表していますが、そのようなことはすらりの知覚の外にありました。知覚の段階に、足を踏み入れていないのです。もしくは、そんな気が起きないのです。
すらりはその叩き、壊しを続けます。金属か、はたまた木材か、樹脂か。まるで見当がつきませんが、そのようなことはやはり、すらりにはどうでもよく、ただ空に突き抜ける乾いた打撃音を響かせるのみです。
こーん、こーん。
音は響きます。それはどこにも吸収されず、外に解き放たれる音。しかし、誰にも聞かれることはありません。そして誰かが聞くということをすらりが聞くこともありません。
こーん、こーん。
音は響きます。降る雪と棒がこすれて、しゃりしゃりという音が出ます。
どすん、という音がしました。
どうやら何か昆虫のようなものを粉砕してしまったようです。
それは背中からぱっくりと割れ、何やらざくろのように赤い中身を露出させます。
すらりはそれを、綺麗だと一瞬思いました。
そしてすぐにそれを忘れようと思い、昆虫の死体に再び棒を振るい始めます。
すらりは口を歪め、奇妙に広げます。
そして、古びた機械のように、喉の奥の発声器官から声を出します。
Happy birthday to you,
Happy birthday to you,
Happy birthday, dear……
すらりはここで少々考えます。そして
dear……虫さん
と言い直します。
Happy birthday to you.
彼女の声は棒の奏でる音と同じくらい綺麗に天へ響きます。
彼女は今のフレーズを何度も繰り返しながら、昆虫の死体に棒を叩きつけていきます。
虫の身体は茶色と赤色、そして体液の緑で構成されていましたが、いずれもその結合をなくし順々に宙へと散っていきます。
虫の死体だった欠片は宙へ舞い、雪とともに落ちていきます。
しかし彼女はやはり目もくれません。
歌を口ずさみながら、あらゆるところを破壊してまわっています。
カタチも、形質も見事にバラバラであったものは、彼女の破壊によってひとつの姿へと統合されていきます。それはこの静かな死の世界に、雪の寒い世界に、あまりにもぴったりで、あまりにも似合いすぎています。
すらりの破壊――彼女にはそうだと理解できていないそれ――が一旦やみます。
すらりはおもむろに棒を取り落とし、振り向きます。二人だけゆえ整備がまるで出来ていないためか、ぎしぎしという音がします。
棒の落下の残響が冬の死の空に溶けていくなか、彼女は彼を見ます。
豆粒がどこからか帰ってきたのです。
「ただいま、すらり」
「えぇ、おかえり、まめつぶ」
豆粒は白い麻のような布をそのまま身体に巻きつけたような服装をしています。何も身に着けていない足はしもやけで赤く染まっていますが、すらりはその赤色が好きなので、豆粒はそのままにしているのです。
豆粒は手で何かをつまんでいます。
すらりは疑問を感じます。彼が手に持っているものはなんだろう、と。
「まめつぶ、それはなんですか」
「これは『蝶』ですよ、すらり。そんなことより、もう歌わないんですか」
豆粒はすらりの歌が大好きでした。特に、瓦礫をリズムにのって叩き壊しながら『はっぴーばーすでい』を歌うのを聞くのが大好きでした。
「今日はもう歌い終わりました。でも、まめつぶはそのとき居ませんでしたよ」
「僕はその頃ここに居ませんでした、しかたないですね」
「まめつぶ、それはどこで取ってきたものなのですか」
「城の外の、みずうみのほとりの、水草が突き出しているところに止まっていました」
豆粒は、平べったい瓦礫の一つ――すらりがならしたもの――の上にその蝶を置きます。蒼い羽根は下の瓦礫の赤茶色と雪の白色を透かしています。――すらりは気付きます。
「この『蝶』は、もうすぐ死ぬのですね、まめつぶ」
「僕は、だから、ここに持ってきたのですよ、すらり」
「じゃあ、やっぱりこの蝶は死にかけているのですね」
「えぇ」
すらりと豆粒はしゃがみこみながら、赤茶と青と白の羽根を見つめます。
羽根を閉じたり、開いたり。胴体をかすかに動かしたり、ぴくぴく震えたり。二人はその様子をじっと見つめます。決して蝶に触れはしません。触れれば、何かが終わってしまう気がするのでしょうか。二人はただ、最後の生にしがみつきながら、落ちてくる雪が身体に積もっていくのに耐えている、この小さないきものを見つめ続けています。
「ねぇ、すらり」
豆粒が口を開きそう言います。発声に時間がかかるすらりに合わせたような、ゆっくりとした口調です。
「なんですか、まめつぶ」
すらりは豆粒の顔を見てそう言います。豆粒の顔はまだ蝶に注がれています。すらりは豆粒のさらさらした頬をじっと見ていましたが、やがてなにかむず痒くなってやめてしまい、また蝶の方に視線を注ぎます。
豆粒が言います。
「この蝶は、ほんとうなのでしょうか」
「つまり、どういうことですか、まめつぶ」
すらりは豆粒の今言ったことがあまり理解できません。ですがそれは二人の会話ではよくあることなのです。すらりの言ったことを、豆粒がうまく理解できないこともあります。
「この蝶は、人間が人間であるかのように、蝶なのでしょうか。ほんものなのでしょうか」
「しめさばがしめさばであるように、ですか、まめつぶ」
「えぇ。らっきょうがらっきょうであるように、です、すらり」
すらりは立ち上がり、「んん~にゃっ」と奇妙な声を出してぎしぎし背伸びをした後、しばらく立ったまま蝶を見下ろします。もちろん、豆粒の後頭部も視界に入っています。
すらりによって見下ろされた蝶は、まるで生きているようであり、今にも飛んでいってしまいそうなほど鮮やかな色を保っていることに彼女は気付きましたが、どうでもよいことだと思い、その光景について考えるのをやめます。そして豆粒の後頭部を見ることなしに
「まめつぶ、私、蝶が蝶であるかということ、あまり面白くありません」
と言います。
「では、蝶がしめさばでもらっきょうでも、面白くないですね」
「えぇ、えぇ。そんなことを考えるのは、面白いではありません」
「この蝶がエチゼンクラゲでも釘でも、構わないのですね」
「それはもっと面白くなくて、好きくないかもです。釘よりは、バナナのほうがいいです」
「そうですか。ならしかたないですね、すらり」
「えぇ、まめつぶ」
すらりがどこを向いて言っているかは、蝶をずっと見ている豆粒にはわかりません。二人がお互いを見ない限り、二人はお互いがどこに居るのかわからないのですから。
すらりは城のうえのあたりを見上げます。
足場がところどころ欠けている階段が、螺旋のように天井へと続いています。その階段には半透明の蔦が巻き付いています。きっと登るのは不可能でしょう。そして故に、網のように鉄が組まれている、ガラスのない天井へ向かうことも不可能でしょう。雪は天井の鉄の組み合わせの隙間から絶え間なく降ってきますが、天井へ登れないがゆえに、二人は多分雪のもとになっている空に近づくことはできないのでしょう。永遠に、ずっと、ずっと。二人はたまにそんなことを思います。雪はあの空から降っているけど、あの空のもっと上に、私達が行けたらどうなるのだろう。と。でも、二人の考えがそれ以上先に行き着くことはありません。初めからあそこへは絶対に行けないと分かっているのですから。二人には翼などはじめから無いのですから。だから二人にとって天井とは見上げるためだけに存在し、他に何か天井について行動しようとは決して思わないのです。
「ねぇ、すらり」
「今度はなんですか、まめつぶ」
「この蝶は、夢を見るのでしょうか」
「人間たちのように」
「そう、人間たちのように。この蝶たちは人間たちの手で大きくなり、賢くなったのですから」
「私はそれについてはこうおも……ふぎゃっ」
すらりはつまづいたようです。
猫のような呻き声を出しながら倒れたのです。
「大丈夫ですか、すらり」
豆粒は心配してすらりのもとに駆け寄ります。
すらりの膝小僧はすりむいて赤くなっています。一見してロボットとわからないほど、人間のように。
「あはは、僕の足の裏みたいな色ですね」
「一緒の色だけど、痛いので嬉しくありません。意地悪を言うと怒りますよ」
すらりは豆粒に支えられながら立ち上がります。
「私は」
すらりは立ち上がった後、豆粒の手を握りながら言います。
「この蝶が――しめさばがしめさばであるように、蝶なら、見るのだと思います。でも、人間に作られた機械なら、見ないのだと思います」
「そうですか。ありがとうございます、すらり」
「ありがとう、まめつぶ」
ありがとうという言葉を聞くと、すらりは少し胸のあたりがむず痒くなります。でも、人間たちと違って、むず痒くなるということを意識し、自覚しているので、それでいいのだと思っています。
「でも、すらり」
「なんですか、まめつぶ」
「今のじだいのロボットは、夢を見る機能が備わっているらしいですよ」
すらりは急に静かになります。
返答の内容を考えているのでしょうか、それとも。
いずれにせよ、すらりの沈黙に豆粒が介入することは不可能です。すらりの考えていることはすらりにしかわかりません。
沈黙は雪と一緒に二人と蝶のあいだに降り注いでいきます。
やがてその沈黙は、ふと起こったある出来事によって終わりを告げます。
瓦礫の上に居た蝶が、ゆっくりと羽根をひろげ、動き始めたのです。
「まだ、元気だったのですね」
先に気づいたのはすらりのほうだったようです。
蝶はあまりなめらかとはいえない動きで、ふわりと宙に浮き始めます。
青い羽根から、白い雪の欠片がふるい落とされていきます。
天井から降り注いでいく光の線に透かされ、羽根の青はまるで水面のような色になります。
そして蝶は、ついに二人の手の届かないところまで昇って行きました。
二人には、時間の流れがゆっくりに感じられます。
「飛んでいるということは、生きているということですね、まめつぶ」
「えぇ、すらり。死にかけていると死んでいるでは、こんなに違うのですね」
「死んでいる、のなら飛ぶことを諦めていたでしょう。でもまだ死にかけなだけだと、あの蝶はわかっていたのでしょう」
「えぇ、すらり。きっとそうです。腐ったらっきょうは食べられませんが、腐りかけのらっきょうは食べられるように」
「でも」
すらりはお腹をさすりながら――ぴっちりした純白のスーツのようになっている身体をさすりながら――蝶を見上げます。
「腐りかけのらっきょうを食べたら、おなかが痛くなります」
「痛いのは、いやですね。かなしいのも、いやです」
また、沈黙が訪れます。そしてしばらくのち。
「お、おお、おおー」
すらりはまた妙な声を出します。視線は蝶とはまた別のところにあるようです。
「どうしたのですか、すらり」
「おおー、まめつぶ、あれを見て下さい。おおー、おおー、きてます、きてます」
豆粒はすらりの指さした方向を見上げます。
城の上層の左端から、何十もの青い蝶が天井にむけて飛んできたのです。
そしておおぜいの蝶は、先程飛び立った蝶と合流します。
「どうやら、あの青い蝶には、なかまが居たのですね、すらり」
「かぞくかもしれませんよ、まめつぶ」
いずれにせよ、限りなく透明に近い青いかけらは、天に昇ることで、大きな青いかたまりになったのです。
彼らはかたまりのかたちを少しづつ変えながら、城の中から外へ、外へと漏れだしていきます。
豆粒によって連れ去られた一匹を取り戻し、元の世界――すべてが広がっていて、寒くて、自動的な世界に帰還していくのでしょう。
「あの蝶たちは、空を飛べるんですね」
「えぇ。そして、元いた世界に戻るのですね」
「でも、ここに居たほうが、死なずに住むのだと僕は思います」
「だけど、死ぬ場所を選ぶこともできます。でも私は死にたくはありません」
「僕もです、すらり。死んだらすらりがいない」
「私もです、まめつぶ。死んだらまめつぶがいない」
「つまり彼らが死んだら、僕達だけになりますね」
「それでも――ずっと一緒ですよ、まめつぶ」
すらりは、言葉を言ってから、またむず痒くなります。そして、豆粒にはこのむず痒さを知られたくないとも思います。
いつのまにか蝶たちは完全に見えなくなっています。
また、二人だけの世界です。骨組みだけの天井から雪が振り続け、ガラクタが散らばり、蔦がそこら中に巻き付いている、永遠的で固定的な世界です。
「そうだ」
まめつぶが天井を見つめるのをやめ、すらりに言います。
「きょうとに行こう、ですか、まめつぶ」
「ちがいますよ。――外に、出てみませんか。今度は、ふたりで」
「なんのために」
「外にある、なにか楽しいことのために」
すらりは少し考えたような表情を――少なくとも豆粒にはそう見える表情を浮かべながら、顎に手をのせて黙っています。
「嫌なのですか、すらり」
「嫌とはちょっと違います。外に出ると、なにか胸のうちがざわざわするんです」
「僕が外に出るときも、いつもそう感じますよ、すらり」
「じゃあ二人一緒ですね」
「えぇ。二人一緒だから、きっと平気です。さぁ行きましょう」
豆粒はすらりの柔らかな手をとって歩き出します。
すらりはまた心のなかがむず痒くなります。
永遠に固定的な冬の世界を抜けて――生と死が自動的な冬の世界へ、二人は歩き出します。
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