第八章   ZEROになる勇気   六

 扉が開いた瞬間、あらゆる香りが一気に流れ込んできて軽いめまいを覚えた。

 昔から匂いには特に敏感だった。

 場の雰囲気や、人それぞれが放つ香りがあって、それが匂いの感覚として伝わってくる。

 肺を患っている人からは、錆びた鉄のような血生臭い匂いが漂い、糖尿病の人からは甘酸っぱい香りを感じた。

 腎臓病を患っている人たちは、軽いアンモニア臭がするのですぐにわかった。

 青い松を連想させる仄かに甘い香りは、死を間近に控えた人が醸し出す特有の匂いだ。

 臨終を迎えて旅立って逝った人の体からは、特に強く香る。祖父の敬三の通夜の席に漂っていた甘く切ない香りは、記憶の奥深くに染み付いていた。

 それらの香りが一気に押し寄せ、鼻腔を刺激するのだから堪らない。

 悲しみと怒り、不安と恐怖、否定と拒絶、受容と降伏。

 あらゆる感情の吹き溜まりを縫うように、碓氷の待つ談話室に向かって歩いた。長い長い廊下だった。

 柔らかな光の漏れ出す一室の前で、先頭の沼田の足が止まる。軽く会釈するとスッと視界から消えた。

 上野がぐるりと俺たちの顔を見渡し、小さく頷きながら目で合図を送る。

 健男児にはおよそ似つかわしくないマスク姿で、嘘のつけない口元を覆い隠しながら、一人、また一人と、風神の待つ扉の向こう側に吸い込まれていった。

 徐々にあらわになっていく風神の姿。相変わらずやせ細ってはいたものの、照明のせいもあってか、幾分か血色や肌つやも良くなったように見えた。何よりも目に生気がみなぎっていた。

「何が起きたのだろう……」淡い期待に胸が騒ぐ。

 マスクの上に覗く二つの落ち窪んだ目が、まっすぐに俺を見つめた。

 奥ゆかしき柔らかな眼差しは、苦行の末に悟りを開いた仏陀の慈悲深き眼差しにも似て。不思議と厳かな気持ちにさせた。

 軽く会釈をし、扉の向こう側に足を踏み入れる。

 広々とした談話室には、俺たち以外には誰も見当たらなかった。

 背もたれの異様に長い車椅子に身を預けた碓氷を上座に、全員が細長いテーブルに相向かいに腰掛けていった。


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