第七章 登龍門 八
日本選手権出場の切符を懸けて勝ち上がってきたA・Bブロック代表のJR東海と、C・Dブロック代表の富士重。
決勝の舞台は浜松球場にて、午後二時より試合予定だった。
浜松球場は外観こそ庵原球場より多少の見劣りはするものの、外野スタンド後方は緩やかな丘陵地の緑に囲まれており、球場から見渡す景色は、どことなく似通っていた。
二〇〇四年の大幅なリニューアル工事によりグラウンドの拡張、施設の改修が行われ、二万六千人もの観客を収容できる立派な地方球場に生まれ変わった。
毎年、中日ドラゴンズがオープン戦、公式戦を年に一、二回ほど行うことで、多くの観衆を集めている。
球場にまつわるエピソードも、輝かしいものから、あまり有り難くないものまで事欠かない。
一九八一年に行われた中日=ヤクルト戦では、大杉勝男が通算二〇〇〇本安打を達成。
一九八三年には、日米大学野球が一試合開催され、日本は七対〇で大勝。浜松球場の名は全国に知れ渡った。
この時、十四奪三振の大会記録を樹立し、完封勝利を収めた河野博文をはじめ、白井一幸、横田真之、広沢克己など、後にプロ野球で活躍する選手も多数が出場していた。
残念なエピソードとして今でも語り草となっているのは、かつて中日に所属していたアロゾン・パウエルに降りかかった二度の災難であった。
一度目の災難は、タッグアウトに向かうコンクリートむき出しの階段で足を滑らせ転倒し、左膝の半月板を損傷する大怪我を負った。
二度目の災難が降りかかったのは三年後の事だった。
対阪神タイガース戦で、パウエルは一安打、一打点でチームの勝利に貢献したものの、敗戦に怒り心頭の熱烈な阪神ファン数人がグラウンドに乱入。
その中の一人が、持っていたメガホンでパウエルの頭を背後から殴打した。
これらのトラブルを防ぐため、翌年には外野フェンスが高くなり、さらに主催者側が試合終了直後にフィールド上に警備員を配置するなど警備を強化して、観客の入り込みを防止するようになった。
同じ球場で二度の災難に見舞われたパウエルは「もう浜松へは行きたくないよ」が口癖だったという。
大会最終日は日曜日と被っていたにもかかわらず、応援席は人もまばらだった。
都市対抗での熱気あふれる雰囲気とは比べ物になるはずもなく、何とも寂しい限りだった。
それでも、富士重の快進撃を聞きつけた一握りの熱心な応援団の姿を、辛うじて確認することができた。
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