第七章   登龍門   七

 見殺しにされた片割れの亡骸が、遠い日の傷跡に塩を擦り込む。忘れかけていた痛み。

 俺は何も変わっちゃいなかったのか。

 車窓から流れゆく景色をぼんやりと見つめていると、おもむろに磯部が歌いだした。

「♪明けゆく空に 伝統の 伝統の 翼の光

育てつつ 世界を覇する 意気と熱 富士の高嶺と競い立つ おお! 我らの富士重工 富士重工 若さはここに富士重工♪」

 何かを振り切るかのごとく、大声を張り上げ歌う横顔。

「おや、おや、おや〜? 大和ちゃん、覚えてくれたんかい、富士重の社歌。どうだ孝一、すげえだろう、俺が教えたんだぜ! よし、大和。応援歌も、いってんべぇ!」

 背後の席から身を乗り出した上野が、だいぶ外れた音程で臆することなく歌いだした。

 たまらず、磯部が含み笑いをしている。

「♪関八州に望み立ち 我ら太田の健男児

松のいさ押し金山の 勝ちどきの声高らかに

いざ行け太田よ どんと行け太田よ あぁチャンス、チャンス、富士重工♪」

「よっ、色男! 二番も行け〜」

「上野の歌は聞きたくねーぞ! 大和が代わりに歌え!」

 狭い車内に黄色い声が飛び交い、賑やかな笑い声に包まれた。

「皆さん、大変お聞き苦しい歌を披露してしまい、申し訳ありませんでした。それでは僭越ながら、九州男児の、この磯部大和!三番、歌います‼︎」

 大きな拍手に、上野のボヤキさえ、かき消されてしまった。

「♪若き血潮は火と燃えて 今だ起て 今だ起て 上州男児 勝利の鍵は我にあり 力だ力だ 大空翔けて 雄叫び高し 金山城 フレ、フレ、フレ〜 富士重工♪」

 気がつけば、わんや、わんやの大合唱となっていた。

 かつて、栄華を極めた中島飛行機時代の名残が色濃く残る社歌。

 栄えある日本の未来を信じ、悠久の大義に若き命を捧げて逝った『白根尊』の人生があった。

 自分より一回りも年下の若者が、祖国の未来を憂い、捧げた命に生かされているのではないか。これからではないか。

 ささくれ立った硬球を握り締めたときの、あの痛み。

 ずっしりとした重みを思うと、すべてのことが些細に思えてきた。

「所詮、すべては、小っちぇえこと」

 小さく頷き、無理して笑い飛ばしてみた。

 誰の耳にも届くことなく、喧騒に紛れ消えていく呪文の言葉にそっと背中を押された気がした。

「よっしゃ〜、明日も勝つぞ‼︎ 勝って、また歌うべぇ」

「いや、歌はもういいっス!」

 上野と磯部のやりとりに、再び笑い声が響いた。少し心が軽くなった。

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