第七章   登龍門   六

 マウンドの近くで二匹の白い蝶がもつれ、絡み合いながら、ひらひらと優雅に舞う。

 昨日の荒れた空模様からは想像もつかないほどの抜けるような青空が広がる庵原球場。

 その健気な姿に暫し見入れば、己の意識は緩やかに溶け出し、白き蝶と一つになった。


        胡蝶の夢

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う


『以前の事、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。嬉々として胡蝶になりきっていた。

 自分でも楽しくて心ゆくばかりに、ひらひらと舞っていた。

 荘周であることは全く念頭になかった。

 はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。

 ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか。

 自分は胡蝶であって、今夢を見て荘周となっているのか。いずれが本当か、私にはわからない。

 荘周と胡蝶とは確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし、主体としての自分には変わりなく、これが物の変化と言うものである』


 中国の戦国時代に生きた思想家の荘周は、夢に胡蝶となって、物と我との区別を忘れ、物我一体の境地に遊んだ。

 是と非、生と死、大と小、美と醜。相対しているかに見える物事は、人間の『知』が生み出した結果であり、荘周はそれを「ただの見せかけに過ぎない」と言った。

 時々、わからなくなる。夢が現実か、現実が夢なのか。

 しかし、そんな事はどうでもいい。

人生の儚さ。「今」と言う永遠の一瞬に、深く刻む想い。甘く切なき白日夢。


「りゅう兄ぃ、そろそろ始まりますよ」

 白い蝶と溶け合った意識は、聞き慣れた声に引き裂かれた。

 夢のようなひと時から、一気に緊迫した時間の中に放り込まれていく。

 午前九時きっかり。主審のよく通る声が、試合の始まりを告げた。

 対戦相手のジェイプロジェクトは、名古屋市に本社を置く外食チェーン。

 創部は二〇〇九年四月と歴史はまだ浅いが、選手は移籍組ではなく、新卒を中心に結成され初々しい若さが漲っていた。

 社業優先の制約があり、部員は午前中に練習を行い、午後はそれぞれの経営店舗に勤務。

 監督は元中日ドラゴンズ投手の辻本弘樹が務めていた。

 初年度はチーム体制を整えるために都市対抗こそ見送ったものの、チーム力の向上ぶりは著しかった。

 その年の秋、日本選手権に出場。初戦で東海理化を破る活躍を見せた。

 NPB選手も排出するなど力をつけ、第八三回の都市対抗予選では、第四代表を勝ち取り、全国大会出場を果たしている。

 結果は初戦敗退だったが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げている新進気鋭のチームだった。

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