第五章 風立ちぬ 八
一方通行の説明は、またもや各自の憶測の域に留められて終わった。孝一は磯部と再び中断していた作業に戻った。
「りゅう兄ぃ。さっきの沼田部長の話、どう思います?」
明らかに納得していない感の口振りに
「どうって? 沼田部長の話す通りだろう」
孝一は漠然とした不安を拭えないまま、黙々とトンボで土を叩く作業に没頭した。お構いなしに磯部が続ける。
「なんだか今いちすっきりしないというか。はぐらかされている、というか。監督、夏頃から急に痩せ細ってきたでしょう?」
「何が言いたい?」
悪しき詮索に苛立ちを隠せない孝一は、間髪入れずに切り返し、磯部に釘を刺す。
その後はお互い一言も交わさず作業を終えた。何とも後味の悪い練習納めとなった。
九
孝一と磯部は帰省せずに、新年を富士寮で迎える事にした。
仕事納めを終えた部員の殆どは、そそくさと荷物をまとめると寮を後にしていった。
結局、残ったのは四人だけ。閑散とした寮の雰囲気というのも、それはそれで良いものだった。
広いグラウンドをのびのびと使える醍醐味を味わいながら、自主トレに汗を流した。
沼田仕込みのスライダーも、次第にコツを掴みつつあり、完成も間近かと思われた。
年越しの夜は寮に残った四人で磯部の部屋に集まり、出前の蕎麦を啜りながら『紅白歌合戦』を見て過ごした。
缶ビール片手に他愛のない話で盛り上がりながら、大いに笑った。こんなに笑ったのは随分と久しぶりだった。
テレビは『紅白歌合戦』から『ゆく年くる年』に切り替わり、除夜の鐘が聞こえてくると一人、二人と部屋に戻っていった。
「もう少し飲みましょうよ」磯部の誘いを断り切れず、一緒に年を越すことにした。
『明けましておめでとうございます』
テレビのスクリーンからは、華やかな振り袖に身を包んだ女子アナたちが、午前零時の時報と共に新年の幕開けを告げた。
「野郎二人で迎える新年か。色気もないっすけど。今年はマウンドに〈六甲おろし〉ならぬ〈赤城おろし〉を起こしましょうね! この磯部大和。とことん、りゅう兄ぃに付いていきますよ」
缶ビールのプルタブを開けながら、磯部が乾杯のポーズを取った。
相変わらず憎めない可愛いヤツ。磯部とバッテリーを組めたら、どんなにかいいだろう。
マウンドに立つ己の姿を想像してみる。ホームベースでミットを構えているのは、やはりベテランの上野ではなく、磯部だった。
北九州一の名捕手として名を馳せただけあって、捕球能力や技術にはキラリと光るセンスが感じられた。
アンダースローは投球の軌道が独特であるが故に、まだ経験の浅い孝一はつい暴投しがちだった。しかしどんなに投球が逸れようとも、磯部は構えた姿勢から左右、上下に柔軟な下半身を駆使して俊敏なフットワークで捉えてみせた。
或る時など、大幅に軌道を逸れた暴投を体で受け止め、その気迫に驚いたものだった。
それに加えて、わざと捕球音を大きく響かせる技術にも長けていた。
ブルペンに鳴り響く快音は何ともいえず気分が良く、自信が漲ってくる。
また、ずば抜けた記憶力や鋭い観察眼にも驚かされた。
都市対抗野球での三菱重工との一戦に於いても、ベンチ内から相手の打者や走者の些細な動作を見ては、サインをずばりと見抜いた。過去の対戦データをきちんとインプットしておかなければ指摘できない細かな配球や結果などを的確に指摘する姿にも感心した。
守備位置から『扇の要』と表される捕手は、投手を支える意味から『女房役』とも言われる。
孝一はたちまち惚れ込み、どうしても磯部を娶りたいと強く願うようになっていった。
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