第五章   風立ちぬ   一

 二月六日に富士寮に入寮してから、早くも一ヶ月が経とうとしていた。

 この期間に孝一を含め七人の投手陣は、足腰など下半身強化のためのトレーニング・メニューをこなしていた。

 九時に練習を開始して、ウォームアップに四〇分。入念なストレッチで身体をほぐしてからキャッチボール・ペッパーを行う。

 キャッチボールのペッパーとは、ランダムに速球を投げ合う練習であり、俊敏性を鍛えるのに役立つ。

 他の選手がノックを受けている間も、ピッチャーはスタミナをつける持久走に、パワーとスピードをつけるダッシュ走や持久系のランニング・メニューを精力的にこなしていく。先ずは走ることで心肺機能と脚力向上を図る。

 そのあと、ようやくブルペン入りして、二十から三十球くらいの投げ込みを行った。

 マウンドを去ってからもランニングやストレッチ、五十球からの投げ込みは欠かさず続けていた。長年の習慣とは皮肉なもので、一通りのルーティンをぱったりと止めることができなかった。きっと怖かったのだと思う。全てを受け入れることで失う『何か』を。

 しかし、現役選手に混じっての本格的なトレーニングはやはり相当きつい。

 三十路を目前に控えた身体は、始めの頃こそ悲鳴を上げていたが、そこは昔とった杵柄。一週間が過ぎ、二週間が過ぎた頃になるとかなり慣れてきた。

 肩や肘の状態も申し分なく、ブルペンで投げ込む孝一にピッチング・コーチも付きっ切りで指導にあたった。

 カーブにスライダー、フォークにストレート。球のキレやスピードも、七年のブランクを考慮しても、まずまずの仕上がりを見せていた。

 確氷も沼田も孝一の状態をつぶさに見守っていたが、大学時代にフォームを改良した名残なのか。やはり投げ方にいまいち、ぎこちない部分があると踏んでいた。

 三月に入ってすぐの春季合宿を目前に控えたある日。ブルペンで投げ込む孝一に、確氷がよく響き渡る低く野太い声で「ちょっと、来い」と手招きをした。

 そこには沼田と投手コーチもいて、腕組みをしたまま厳しい表情を浮かべ立っていた。

「今日から投球フォームを変えるぞ。孝一にはアンダースローを覚えてもらう」

 あまりに唐突な確氷の提案に拍子抜けして、孝一は事態をのみこめずにいた。

「もしや監督が言っていた秘策とは、これだったんですか」

 苛立ちと焦りの入り混じった複雑な思いが孝一の心に小波を立てた。

「秘策だって? 沼田よ。俺そんなこと言ったかな」確氷は惚けた顔で沼田に目配せした。

「さぁ、どうでしたかねぇ」沼田まで、のらりくらりとかわしている。

「誤魔化さないで下さい!」怒り任せに孝一の語気も荒くなった。

「なら、どうだってんだ? 秘策なんて初めっからねぇや。つべこべ言わず話を聞け」

 確氷はピッチング・コーチの渋川正治に「どうぞ」と、話を振った。

「孝一の仕上がりは悪くない。球のスピードも切れもまずまずだ。だが、投球フォームに迷いがある。この調子で投げ続ければ、再び肘を壊しかねない。一度覚えた癖はなかなか治らない。それならいっそのこと、全く新たなフォームに変えようと思う」

 渋川の見立ても一理ある。大学時代に何度かフォームの改良を試みて以来、どこかしっくり来ない感じは否めなかった。それならと元のフォームに戻してみても、感覚は取り戻せなかった。

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