第五章   風立ちぬ   一

「アンダースローは全身を使わないと投げられないから、一箇所に疲労が集中せず故障が少ない投法だ。だから肩や肘に問題を抱えた投手が転向する例も多い。だが正しいフォームを身に付けないと、酷い場合には肋骨にヒビが入ったりすることもある」

 渋川の説明に頷きながら沼田が続いた。

「私も現役時代に肩を壊してからアンダースローに転向した。アンダースローにはマニュアルがない。不安もあったが、指導者に恵まれたので上手くいってね。速球は投げられないが、低いリリース・ポイントから浮き上がるような軌道を描くので、打者を幻惑できる」

「アンダースロー投手は絶対数が少ない。ピッチング・マシンも少ないために、打者は打ち返す練習にも事欠く。そこへきて、孝一はサウスポーだ。これを使わない手は、ない」

 渋川は確信に満ちた眼差しで孝一を見据えた。

 孝一は正直、不安だった。理屈はわかるが全くの新境地に足を踏み入れるときの心細さが先に立つ。

「そんな情けない顔すんなやぁ。経験と実績のある沼田が指導してくれるんだ。一日も早くマスターしてもらい、孝一には先発を任せたい。後々には、チームの要として活躍できる投手になって貰いたい」

 他の投手が投球練習を始めたのか、ブルペンに迫力ある捕球音が響き渡った。

「主軸の草津も肩の調子が思わしくない。年齢的にも三十八歳と、引退も視野に入れて考えている。あとはリリーフが二人、控えが一人。中継ぎも二人いるが、台風の目となるエースが欲しい」

 確氷の言葉が、孝一の肩にずつしりと重くのし掛かる

「ここで無理をしても七年のブランクは埋められん。孝一には一年間、下半身強化のトレーニングに重点を置きながらスタミナのある体を作り、アンダースローをしっかりと身につけて貰いたい。いいな」

 戸惑う心に釘を刺し、遠ざかっていく大きな背中にそっと呟く。

《ようし、やってやろうじゃないか!》

 未知の世界に踏み込んでいく不安や恐れを上回る好奇心に、孝一の眠っていた闘志が静かに目を覚ます。

 いつの間にか黒が優勢となっていたオセロゲームのような人生を、一つ一つ白にひっくり返していこう。まだまだ逆転の可能性は残されている。

 不安を自信に。絶望を希望に。マウンドでの恐怖心は、熱くみなぎる闘争心へと変えていこう。

「さぁ、孝一。始めるぞ!」

 沼田の掛け声でスタートしたオセロゲームの行方はまだ、知る由もない。


 

 


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