第四章   風神   八

「お母さん。本当に立派なお店ですね。先祖代々大切に受け継がれてきた。孝一君の作った和菓子も立派なもんだ。将来が楽しみな青年です」

 相変わらず美佐子の口元は真一文字に閉ざされたままだった。頑なな姿勢は崩れる素振りなど微塵もない。

 確氷はお構いなしに続けた。

「孝一君をここまで育て上げるには、ひとかたならぬご苦労もおありだったでしょうな。私は孝一君が高校生の頃から、ときおり試合での投げっぷりを見させてもらいました」

 思いもよらぬ一言に、孝一の胸は高鳴った。『そんなに昔から、俺を見てくれていたのか』確氷の言葉に、孝一の心は静かな感動に包まれていた。

「当時から、孝一君は高校生らしからぬ、重く速い球を投げていました。それに、なんといってもサウスポーが大きな強みでしたね」

 聞いているのか、いないのか。美佐子は微動だにせず、言葉の代わりに強烈なオーラを放ち予防線を張っていた。付け入る隙などなかった。

 しかし、確氷も負けてはいない。『人たらしの平八』節は絶好調だった。

「孝一君のマウンド捌きは群を抜いていましたねぇ。投球の際の手首の柔らかさ、肩のしなやかさが際立っていた。持ち前の速球に緩急を交える投球は、高校生離れしていました。このまま大事に育てればプロでも通用する子だろうと思っていましたよ」

 当時を振り返りながら興奮気味に語る確氷と、虚な目で無言を貫く美佐子の温度差を埋める手立てはあるのだろうか。ずれたピントを調整するべく、沼田が続いた。

「確氷さんと六大学野球の春季リーグを観戦したときのことです。孝一君の投球フォームが変わったことに一抹の不安が過ぎりました。孝一君のフォームは特徴があり、大きなテイクバックから投げる曲球が持ち味の一つでもありました」

 記憶のフィルムを巻き戻しながら、確氷も目を細めながら語り出す。

「繰り返しになりますが。孝一君の球は一四〇キロを超える重い速球で、テイクバックが深いために腕が遅れて出てくる。打者としてはタイミングが取れず、打ちづらかったのです。しかも曲球で、それが孝一君の良さでもあったのですが。コーチ陣は気に入らなかったのでしょうね」

 二人の見解は、当時の孝一の投球スタイルを正確に言い当てていた。

「フォームをいじられた挙句に、肩や肘に故障を抱えるケースは珍しくありません。孝一君は気持ちが素直なんでしょうね。言われるがままに無理して投げ込んで。結果的に肘を壊した。私なら絶対にやらなかった」

 確氷は、やるせない表情を浮かべ首を横に振った。

「ずいぶんと孝一の事情にお詳しいようですね」

 その時を待っていたかのごとく、美佐子の口から鋭い刺を孕んだ言葉の矢が放たれた。

「他を当たって下さいな。可哀想に。孝一は散々利用された挙句、使い捨てにされたんですよ。あなた方のような人たちによって、ね」

 美佐子の恨み節は続く。

「ご存知の通り、孝一は大事な店の後継ぎですの。大学で野球をすると聞かされたときは反対もしましたが、二代目だった私の父が『孝一には思う存分、野球をやらせてやってくれ』と申しておりましたので。その意思を尊重して、目を瞑って参りました」

 確氷も沼田も小さく頷きながら、黙って美佐子の話に耳を傾けていた。

「それを、なんですか! 使い物にならないと見るや、ポイですよ。男性には分からないでしょうが、女は命懸けで子供を産むんです」

 次第に強まる語気を察した洋平が、美佐子の肩にそっと手を添える。しかし、その手を振り払ってでも伝えたい想いは、誰にも止める権利はない。

「子供はね、女の命そのものなんです! それをボロ雑巾のように。あんまりじゃありませんか。孝一はもう、どこにも預けません!

お引き取り下さい‼︎」

 人に恩恵を与える寛大さと殺害する凶暴さとをあわせ持つ夜叉。地母としての慈愛と優しさの裏に隠された残忍さが、辛辣な言葉となって二匹の鬼に突き刺さる。

 

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