第四章   風神   八

 しかし確氷は動じる素振りもなく、淡々としなやかに美佐子を受け止めていた。

「お母さん。さぞかし、お辛かったでしょう。我々も反省せねばならない点は多々あります。まことに耳が痛い。しかし勝負の世界は厳しい。勝つか負けるか、二つに一つ。勝たねばならんのです」

 両者の思惑は土俵際でがっぷり四つに組んだまま。どちらも、一歩たりとも引かない。

「富士重工業野球部も、嘗ての黄金期はどこへやら。最近では成績も振るわず、上層部からは引導を突きつけられる始末です。このご時世に企業の宣伝に貢献できないチームをいつまでも面倒見てられない、と。当然ですよね」

 沼田が切羽詰まった現状を口にした。

「誰でもいい、という訳にはいきません。他を当たるつもりも、毛頭ありません! どうしても孝一君に力を貸していただきたく、お願いに参りました」

 確氷と沼田は改めて深々と頭を下げた。

 美佐子の視線は二人を避け、結露のひどい小さな出窓にそそがれていた。

 孝一もまた、玉のような露が次々と伝い落ちる様を見つめていた。窓硝子に映る小さな世界で、二匹の鬼と夜叉がグニャリと歪んだ。

「どうして孝一でなければならないんですか。調子のいいこと言って。使えないと見れば放り出すんでしょう! 冗談じゃありませんよ。孝一は捨て駒じゃないんです。店の大事な跡取りなんですよ‼︎」

 怒りを露わにする美佐子を前に怖気付く素振りもなく、確氷は熱弁をふるう。

「我々には秘策があります! 今はまだお話しできませんが。孝一君を必ずや復活させてみせます。どうか、この確氷平八を信じて、預けてもらえないでしょうか」

 美佐子は軽く笑い飛ばしながら、呆れ顔で一喝した。

「そんな根拠のない話。どうやって信じればいいんですか。馬鹿馬鹿しい!」

 テーブルを叩きつけ、場を立ち去ろうとする美佐子の手を掴んだ確氷が激しく咳き込む。あの時と同じくおかしな咳をしているな、と孝一は思った。ぜいぜいと息が漏れていくような奇妙な咳込み方を忘れてはいなかった。

 咄嗟に口元を隠した確氷の手から、鮮血がぽたり、ぽたりとこぼれ落ちていった。

 只ならぬ様相に、居合わせた者たちの表情が凍りついた。

 美佐子は慌ててサイドボードから清潔なハンドタオルを取り出し、確氷の口元に宛がった。

「救急車を呼びましょう! お父さん、早く電話を‼︎」

 咳き込む確氷の背中をさすりながら美佐子が叫んだ。

「駄目だ、洋平! 電話するな‼︎ お母さん……あなたがハイと返事をしてくれるまで、死んでも私はここを動きません!」

 息が漏れて聞き取りづらくとも、確氷の熱意と覚悟のほどが、ひしひしと伝わってきた。

 洋平は静かにそっと受話器を置いた。確氷の凄まじいまでの執念に孝一もまた、戸惑いを隠せずにいた。

 そこまでして獲得するほどの価値を、果たして自分は持ち合わせているのだろうか。

「確氷さん、顔色が良くありません。また、後日改めて……」沼田の言葉を遮り「孝一君には時間がないんだ。なんとしても今日、返事を貰って帰る。腹を括ると言ったはずだぞ、沼田!」と説き伏せた。

 両者とも、土俵際の踏ん張りに取組は長丁場になると思われたその時だった。

「わかりました、確氷さん。それまでして孝一を欲しいと云われるからには、立派な秘策がおありになるのでしょう。あなたを信じてみたくなりました。孝一、お前はどうするの」

 断る理由など、あろうはずもなかった。

「父さん、母さん。俺はもう一度マウンドに立ちます。お願いします。行かせて下さい!」

 改めて居住まいを正し、畳に両手を突いた孝一は、深く深く頭を垂れた。

「お父さん、いいですか?」

 洋平は黙ったまま、小さく首を縦に振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る