第四章   風神   八

 現役の頃からの条件反射で、利き腕を触られようもなら誰であろうと容赦はしなかった。乱暴に沼田の手を引き剥がすと、キッと睨みつけた。

「おっ、いい目をしてるなぁ。実にいい! 確氷さんが惚れ込むのも納得がいく。それに、この肩の筋肉の動き。じつにしなやかだ。いいね、まだまだ投げられるよ」

 沼田は何か確信を得たように頷きながら、まじまじと孝一を見つめていた。

「なっ、いいだろう? 私の目に狂いはない。どうだ、孝一君。腹は決まったのか」

 確氷は訊ねているのではないと分かっていた。

「はい、自分は心を決めました」

 覚悟はできている。

 リビングに通じるレジ脇の廊下から、小走りにスリッパの音が近付いてきた。

 上がりはなの暖簾を掻き分けながら、美佐子は満面の笑みで客人を歓迎した。

「ほら、お父さん! そんな所で立ち話してないで。まぁ、まぁ。こんな山奥の田舎に、よくおいでくださいました。どうぞ、お上がり下さいな」

 なにも知らない美佐子は、洋平の幼なじみという事で、不審に思う素振りもなく迎え入れた。

 孝一はといえば、まるで法廷の裁きを待つ被告人の心境だった。リビングへと続く廊下が、とても長く感じられる。冷静さを装いながらも、内心は戦々恐々としていた。

「いや〜、薪ストーブですか。これは暖まりますねぇ」

 先に通された確氷が感嘆の声を上げた。

 和風モダンな作りとなっているリビングは一部が吹き抜けとなっていた。その壁際に設置された薪ストーブはインテリアとしても堂々とした立派なもので、美佐子のお気に入りだった。料理も作れる優れ物で、ストーブの上に置かれた鉄瓶からは、細く白い湯気がゆらゆらと立ちのぼり、冬の乾いた空気を潤していた。

 三十畳ほどの広いリビングの一角には、小上がりになっている四畳半ほどの畳スペースがあり、冬場は掘り炬燵となった。炬燵の周りには、銘仙織の模様が美しい薄紫色の来客用座布団が丁寧に並べられていた。

「今、お茶を淹れますから。さぁ、どうぞこちらへ」

 掘り炬燵へと促す美佐子に軽く頭を下げながら、確氷と沼田が腰を降ろした。

 てきぱきと手際よくお茶の用意をする美佐子の異変に、孝一は気付き始めていた。

 美佐子の所作は、最早もてなすためのものではなく、気を逸らすためのように見えた。

「美佐子、ちょっと来なさい」

 洋平が忙しなく動き回る美佐子を手招いた。

 美佐子は促されるまま、そそくさと洋平の隣に正座した。

「美佐子、こちらが幼なじみの確氷平八さん。そのお隣は沼田トオルさんだ」

 口元には微かな笑みを浮かべているものの、美佐子の目は決して笑ってはいなかった。

「妻の美佐子です」

 深々とお辞儀をする美佐子は顔を上げるなり「確氷さんの他に、もうお一方いらっしゃるとは聞かされておりませんでしたわ」と、皮肉混じりの口調で言い放った。

 ピンと張り詰めた空気が漂う。

「確か…… 確氷さんは富士重工業野球部の監督をなされておいでとか。今日はどういったご用件で、いらっしゃったのでしょうか」

 美佐子は背筋をピンと伸ばした美しい正座姿で、真っ直ぐに確氷と沼田を見つめた。

 応えるように、確氷と沼田も居住まいを正した。

 リビングのテーブルには、出番を逃した美しい有田焼の湯飲み茶碗が無造作に並んだままだった。

 

 



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