第四章   風神   六

 すっかり碓氷のペースに巻き込まれ、白いスバル車のセダンに乗り込んだ。

 ボリュームを下げたラジオから、懐かしいフォークソングが流れてきた。イルカの『なごり雪』だった。

 九年前の三月二十五日。卒業式の日に降った春の雪を忘れない。

 大隈講堂を一歩出ると、みぞれ混じりの重く湿った雪が一歩前を歩く洋平と美佐子の肩を濡らしていった。

 脳梗塞の後遺症で右半身に麻痺が残った洋平に寄り添い、傘を傾ける美佐子。

 二人の背中を見ていたら、なぜだか無性に泣けてきた。

 最後の最後まで大学進学に猛反対の美佐子を説き伏せ、擁護してくれたのは父だった。

「お前はまだ若い。自分の可能性に懸けてみろ。悔いのないよう思う存分やってこい。家の事は、そのあとでいい」

 滅多に意見などした事のなかった洋平が、このときばかりは毅然として譲らなかった。

 なぜあれほどまで頑なに押し通したのだろう。

 大切な店の後継ぎに思いを託す美佐子の気持ちもわかっているつもりでいた。

 しかし、やめろと言われて素直に従えるはずもない。

 憧れの巨人のユニフォームに袖を通し。マウンドに立つ日を夢見て我武者羅に突き進んできた日々。

 今さら背を向けるなど、できるだろうか。

 洋平と美佐子。二人の相反する思いを胸に抱きつつ、全てのしがらみを振り切って故郷をあとにした十八歳の春。

 その後も着々と実績を重ねて、プロのスカウトたちの間でもまことしやかに『桐生孝一』の名が囁かれ始めた大学三年生の夏の日なことだった。

 左肘の違和感から始まり、やがてコントロールの効かなくなった左腕。

 恐れをなした俺は、感情のコントロールまでも失っていった。

 現実を真っ向から受け止める勇気もなく、二つに引き裂かれた心は、声にならない悲鳴を上げ、血の涙を流していた。

 俺は取り返しのつかない過ちを犯した。

 光刺す場所に影ができるように、どこに逃げようとも追いかけてくる影法師。

『仕方がない』と、言い訳じみた正論を隠れ蓑に、マウンドを後にしたあの日。

「あそこに見えるのが渡良世川かい?」

 長い沈黙を破って、ハンドル片手に碓氷が指差した。

「そうです。恐ろしい龍の伝説で有名な川ですよ」

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