第二章   雷神   三

「あはっ、あっはっはっはぁ! 武尊、笑ってごらん。ほら、しょせん全ては小っちぇえこと。小っちぇえ、小っちぇえ! あっはっはっは〜だ‼︎」

 泣いてるのか、笑っているのか分からない。涙でぐしょぐしょに濡れた顔が、精一杯に笑ってみせた。

 武尊は一瞬、驚いて真琴を見ると、唇をギュッと噛み締めて固く目を閉じた。

 真琴はすっくと立ち上がると、武尊の背後に回り込み、いきなりくすぐり始めた。

「ばか、おい! やめろよ〜 わかった、わかったからさぁ」

 すっかり観念した武尊は、苦虫を噛み潰したような笑いを浮かべ、救いを乞い、両手を合わせた。

 してやったりと、親指を立て満足した様子の真琴は、次のターゲットに狙いを定めた。

「ほら、孝一! お前も笑え〜‼︎」

 悪戯っ子みたく両手を振り上げた真琴が襲いかかってくる。

「いや、俺はいいからさ。やめろ〜ばかっ! マコ、よせったら」

 そうだ、そうなのだ。

 今の俺たちには、全てを笑い飛ばす強さと、さらりと受け流すしなやかさが必要だった。

 人生をあまり深刻に受け止めてはいけない。生きていく上で本当に必要なものなどごく僅かで、そのほとんどがガラクタのおもちゃに過ぎないのだから。

 手探りでもいい。

 本当に必要な物だけを掴み取ったら、大胆に笑い飛ばして、あとは思い切って捨ててしまえばいい。

 俺たちはまだ、若いのだから。

「マコには敵わねぇなぁ。一本取られました!」

 武尊は乱れたシャツを直しながら、あっさりと敗北宣言をした。

「どう? 笑うと胸がスッキリするでしょ。私が泣きそうになると、いつも無理にでもいいから笑えって。人は泣いて生まれて、笑って生きるんだって。武尊が教えてくれたんだよ」

 笑顔を取り戻した愛くるしい顔には、マスカラが剥げ落ちた黒い筋がうっすらと滲んでいた。

「へぇ、俺そんなこと言ったかなぁ。この言葉は、師匠の受け売りなんだけどさぁ。とりあえずマコ、顔拭けや。いい女が台無しだぞ」

 おしぼりを手渡しながら照れ臭そうにはにかむ姿に、幼き頃の面影が覗いた。

「うわっ、酷すぎる‼︎ これじゃお嫁に行けないじゃんか〜」

 慌ててバックからコンパクトを取り出した真琴は、鏡に映る姿に驚嘆の声を上げた。

「あれっ、まだ諦めてなかったん? なんなら俺がもらってやってもいいんだぜ」

 武尊がニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。

「なに上から目線で言ってるのよ! あんたを選ばなきゃならないほど不自由してませんから。おあいにくさま〜」

 間髪入れずに真琴が切り返した。

「そらっこと言うなや。じゃあ今度、俺に会わさせてみぃ? マコに相応しい野郎かどうか見定めてやるべぇじゃねぇ。なぁ、孝一!」

「冗談でしょ。あんたみたいな友達がいるって知ったら、まとまるものも、まとまりゃしないわ」

「相変わらず口が達者だいなぁ、せいぜい行き遅れんないなぁ」

「武尊もね〜 男やもめに蛆がわく〜」

 学生時代そのままのくだらない二人のやり取りが、今の孝一の耳には心地良かった。

 変わっていくこと、変わらないこと。どちらも同じ大切なこと。

「ところで、武尊の師匠って、誰?」

 孝一が徳利片手に目配せすれば、武尊が躊躇いがちにお猪口を差し出した。

 さしつ、さされつ。再会の夜はゆっくりと更けていく。

「施設の園長さ。俺にとっちゃ育ての親だな。立派な人だった」

 忘れられない人がいる。忘れられない言葉がある。心の奥深くに、いつまでも色褪せることなく。

「わかるわ。素敵な言葉ね。泣いて生まれて、笑って生きる」

 まるで自分に言い聞かせるように、小さく何度もうなずく真琴を愛おしそうに見つめる武尊がいた。

 武尊、いつまでも変わらないでいてほしい。そのままのお前でいてくれればいいから。

「俺の中には、雷神さんがいるんだとさ」

 唐突に、ぼつりと武尊が言い放った。

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