第二章   雷神   三

「どういう意味たよ」

 一対になった風神、雷神の壮麗なる屏風絵が目に浮かんだ。

『雷と空っ風、義理人情』

 群馬の気候と風土、県民性を如実に表している文言は『上毛かるた』と名付けられた郷土カルタの一首だった。

「もう一人の人生の師、俺に達磨の絵付けを教えてくれる吾妻さんに言われたんだ。お前が描いているのは達磨さんじゃねぇ。こりゃあ、雷神さんだってな」

 武尊は改めて自分の両手をまじまじと見つめ、開いたり閉じたりした。

「お前、綺麗な手をしてるよな。これが男の手かよ。でも、この手が俺の暴れ球も受け止めてくれたんだよな」

 節が細く、しなやかに動く指は、繊細で美しい女の手のようだった。

「よせやい、照れるぜ」

 恥ずかしそうに手を引っ込めようとした左手親指の付け根。

 そこには、決して消すことのできぬ深い傷が刻み込まれていた。思わず目を逸らす。

 俺は何も見ていない。何も知らない。何も聞かない。

 過ぎ去った出来事は、幻に過ぎないのだから。幻に過ぎないのなら、自分に都合のいいように書き換えればいいだけの話だ。

 たとえ疑惑が、限りなく黒に近い白であったとしても…… 敢えて俺は、白だと云おう。

「聞いたわ。吾妻のおじさんから。正月に親戚の集まりがあってね。武尊はどうしてる?って聞いたの。そうしたら、まだまだ荒削りな所はあるけど、いい絵師にしてみせるって、意気込んでたわよ」

 頬杖をついて物思いにふける武尊に、らしからぬ苦悩の表情が見てとれた。

「俺なりに師匠の言葉の意味を考えてみたんだけど、結局は俺のくそったれな境遇に行き着いちまう。こればかりは、どうにもならねぇ。じゃあ、どうすりゃいいんだよ。畜生め、消しゴムみてぇに消せねぇかな。綺麗さっぱりよぉ」

 徳利に手を伸ばした武尊は、手酌で溢れんばかりに継ぎ足すと一気に呷った。

「消せるわよ、何度でも。武尊は知らないでしょうね。実は吾妻のおじさんも、武尊と似た境遇に生まれついた人よ。苦労人なの」 

 武尊はハッと我に返り、驚いたように真琴を見た。

「おじさんはね、八人兄弟の末っ子として生まれたの。家はどうしようもなく貧しくて、九歳になって間もなく、和服問屋に奉公に出されたんですって。俺は親に捨てられたんだって、思ったそうよ」

 挑戦的な目つきで武尊を見返しながら、真琴も徳利を手に取った。

 制する武尊の手を振り払い、手酌でお猪口に並々と酒を注ぐと、苦々しい顔つきでやっとのこと飲み干した。

「まだ小さかったおじさんは、失敗ばかりして、店主にはこっ酷く叱られ、使用人たちからは足手纏いだと、憂さ晴らしの種に苛められていたんだって。惨めで悲しくて、家に帰りたくても帰れない。死ぬほど両親を恨んだって言ってたわ」

 武尊は身動ぎもせず聞いていた。

 人は誰しも辛く悲しい過去を引きずって生きている。

 悲しみが深ければ深いほど、海の底に沈む貝みたく口をつぐみ、語ることもない。

「俺たちの世代では、幼くして奉公に出るなんて想像もつかないけど。昔はよくあったらしいよな。俺の爺ちゃんも幼い頃、奉公に出されたと言ってたよ」

 祖父の敬三が悪酔いすると、自慢げに奉公先での苦労話を聞かされたものだった。

「いつものように使用人たちから殴る蹴るの暴行を受け、ぼろぼろになったおじさんは、気づくと渡良瀬川のほとりにいたんだって。仄暗い川面に映る腫れ上がった自分の顔を見て、涙がぽろぽろ溢れたって聞いたわ」

 川の主はじっと息を潜めて、事の成り行きを見守っていたに違いない。

 人知れず流した涙は、清流のひとしずくとなりにけり。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る