第一章   なごり雪  三

「人違いだったら悪ぃんだけど、もしかして孝一じゃねえんかい?」

 いきなり話しかけられ、ハッと我に帰る。振り向きざま、驚きのあまり言葉を失った。

 橋の袂の仄暗い外灯が照らし出す顔は、きっちりと五分に刈られた白髪まじりの頭に髭面の、大好きだった人懐こい笑顔だった。

「やっぱり孝一か! よく帰ってきたじゃねえか。あんばいはどうだい? 元気でやってるん? なにぼ〜っと突っ立ってるんだやぁ、なんか言いなぃ」

 群馬弁丸出しの馴染み深い声は、孝一が高校時代、部活のあとの空きっ腹を満たすため、毎日のように立ち寄っていた焼きそば屋の店主の尾瀬梅吉だった。

「嘘だろ…なんで梅ちゃんが此処にいるんだ。さっきの得体の知れないバスといい、やっぱ俺はどうかしてるぜ」

 記憶の海に溺れながら、永遠に覚めることのない夢をみているのだろうか。

 梅吉は孝一が高校を卒業して間もない頃、出前の自転車で交差点を横断中に、信号無視で強引に右折してきたトラックの下敷きとなり、亡くなった。内臓破裂で即死だった。

 その頃の孝一は、東京六大学野球で名高い名門、早稲田大学野球部からの誘いを受けていた。願ってもない話と、迷わず入学を決めた。

 既に二月末からオープン戦は始まっており、着々と春季リーグへ向け調整が始まっていた。孝一も六月初旬からスタートする春季新人戦を間近に控え、卒業を待たずに住み慣れた故郷を離れ、東京での寮生活を始めていた。

 感慨に浸る間もなく、慌ただしく過ぎ去っていく日々のなか、突然やってきた大切な人の訃報は、孝一に大きな衝撃を齎らした。

 渡良瀬川の畔に、見事な枝垂れ桜が彩りを添える、穏やかな春の日のことであった。

 通夜の夜、梅吉の顔にかけられた皺ひとつない真っ白な晒しの布を、震えの止まらぬ手でそっと外した光景が鮮明に蘇ってきた。

 強く打ちつけたのか、酷く浮腫んだ顔に生前の面影はなかった。白装束に身を包む血の気のない胸元には、死化粧を施したとはいえ、隠しきれない痛々しいタイヤ痕がうっすらと残っていたのを、今でもはっきりと覚えている。

 だとすれば、今、こうして目の前に現れた男は誰なのか。

 混乱し、戸惑う孝一に考える隙を与える間もなく、男が矢継ぎ早に話しかけてきた。

「久しぶりにけぇってきたんだ、こんな所じゃなんだから俺の店に行くべぇ。うんめぇ焼きそば食わせるからさぁ。そこでゆっくり大学野球の話でも聞かせてくんなぃ」

 見慣れた出前の自転車を押しながら渡良瀬橋を渡る男の後ろ姿が、一段と深さを増した夜の闇に溶け込んでいく。

「これは夢だ。そう、とてもよくできた夢に違いない。ならば、このまま。今はこのまま。どうか少しでも長く、一緒にいられますように」

 気づけば「梅ちゃん‼︎」と後を追って、今にも消え入りそうな背中を夢中で繋ぎ止めた。

「おう、なんだやぁ。孝一、早く来なぃ」

 孝一は小走りに駆け寄り、梅吉と肩を並べて歩き始めた。

 不思議だ。橋を渡り始めて間もなく、あれほどまでに重苦しく感じられた体が、嘘みたいにふわりと軽快になってきた。全ての垢を削ぎ落としたみたく、スッキリした心地になる。

「う〜っ、さみぃなぁ。今夜はやけに冷えるでぇ。早いとこ行くべぇ」

 肩を竦めながら身震いする梅吉の歩調が早くなった。

 漆黒の闇から放たれる鋭い冷気の矢が、乾いた頬に突き刺さった。

 今一度しっかりと確かめるべく、隣をちらりと盗み見る。偶然にも視線がピタリと合った。見てはいけないものを見てしまったときの後味の悪さにも似て、すぐさま目を逸らす。

 戸惑う気待ちを咄嗟に「梅ちゃん、元気そうだな」の言葉で誤魔化した。

「おぅ、俺はこの通りだけどさぁ。孝一、おめぇはなんか、暫く見ねぇうちに、ちょっと老けたんじゃねぇんかい? 疲れてるげに見えるでぇ。どうだ、練習はきついけやぁ?」

 孝一は作り笑いを浮かべながら、小さく首を横に振った。

「なんだ、まだ始まったばかりなんに、もう音を上げてるんかぃ。だらしがねぇなぁ」

 茶化すように梅吉が笑った。人懐こい懐かしい笑顔だった。

「そんなんじゃないさ」と否定してみたものの、あの頃の自分に想いを馳せるたび、胸に深く刻まれた傷口から噴き出す、どろりとした深紅の血。

 やはり凄惨な事故死を遂げた日から、梅吉の時間だけが止まっているようだった。

 気まぐれな野球の神様に、ある日突然そっぽを向かれ、ボロボロになって堕ちていった事の顛末を知る由もない。

 何故かホッと安堵の息が漏れた。

 梅吉の記憶の中には、意気揚々とマウンドで暴れ回る孝一しかいないのだから。

 ごめんよ、梅ちゃん。俺の中では、もう、遠い過去の栄光になってしまったんだ。

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