第一章 なごり雪
「人っ子一人いない。なんだか様子が変だ」
乗客は孝一、ただ一人であった。
堪らず「ちょっとすみません」と車掌に声をかける。
僅かに振り向いた車掌の、驚くほど細く白く透き通るような美しい首筋に見惚れた。
靴音も響かせず静かに近づいてくる様は、儚くも美しい幽霊のようだ。
「なにか?」と、形の整った美しい唇が訊ねた。
「この口紅の色、どこかで見た色。そうだ、渡良瀬橋の色」
生まれ故郷を貫くように流れる渡良瀬川に架かる橋の、不気味なほどに鮮やかな朱色。
思わず息を呑み、ハッと我に返って「このバスは高崎駅を経由しますか?」と、聞く。
高崎市は群馬県のほぼ中央に位置しており「鶴舞う形」と言われる群馬県の懐で「空を見上げる雛鳥」のような形をしていた。
終点も訊ねたかった。だが、何故だか辞めておいたほうがいい気がして口を噤んだ。
美しい車掌から発せられる「いいえ」の言葉には、人間的な感情や響きが、まるで感じられなかった。
今までに味わった覚えのない、奇妙な空気感が俄かに不安を掻き立てた。
「次で降りたいのですが」
車掌は「わかっている」とでも言いたげに僅かに頷くと、元いた場所に音もなく静かに戻っていった。
扉が閉まり、バスがゆっくりと走り出す。
妙な緊張感を解きほぐそうと、大きく一つ、肩で息をした。
「次で降りますって、次って、どこさ」
その場をあやふやに済ませて後悔するのが孝一の悪い癖だ。
車内をぐるりと見回してみても、いつもの通勤バスと大して変わりばえなく、内装もいたってシンプルだった。
願わくば、早く次の駅で降りて雰囲気のいい居酒屋に入り、熱燗でも一杯ひっかけながら、冷えきった体を温めたかった。
「ところで。どの辺りを走ってるんだろう」
何気なく前方に目を向けると、フロントガラス越しに大きなトンネルが見えてきた。
異次元の入り口に誘うが如く、ぽっかりと大きな口を開けている。
「いったい、どうなってるんだよ。この辺りにトンネルなんてないぞ」
孝一の直感が全力を上げて警笛を鳴らし始めた。
そこに踏み入ってはならない、と。
しかし無情にも、バスはゆっくりとしたスピードで、トンネルの中に飲み込まれていった。
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