第7話 帰り道
多すぎるだろうと思っていた夕飯は、気づけば大皿のコロッケまで綺麗になくなっていた。
みなと駿の食欲につられて俺もどんどん口に運んでしまい、空っぽになった皿を見たときに、思い出したように腹が苦しくなった。
食べ終わり、母が片づけを始めると、みながさっとテーブルの皿をまとめて流しまで運んだ。その動作がとても自然で手慣れていて、なぜか少し切なくなった。
「まあ、ありがとう。いい子ね」
母に言われ、みなはかすかに頬を染めて、嬉しそうに笑った。
「あ、そうだ。あのね、ケーキがあるのよ。食べていってね」
「へ、本当ですか?! わあ、嬉しいなー」
「片づけ終わったら持って行くから、あっちでテレビでも観て待っててね」
「あの、みな、手伝ってもいいですか? 片づけ」
「あら、手伝ってくれるの? ありがとうね」
みなははにかむように笑い、「いえ」と首を振った。
母とみながキッチンで皿を洗っている間、俺と駿はリビングでテレビを観ていた。
「……なんか、ごめんな」
みなと楽しそうに会話をしながら皿を洗っている母をちらと見て、声を落として駿にそう言うと、駿は「何がだよ」と不思議そうに聞き返した。
「さっき、母さんがちょっと無神経なこと言ってたから」
「さっき?」
駿は少し考えてから、「ああ」と納得したように頷いた。それから、あっけらかんと笑って
「べつに気にしてねえよ。つーか、とくに無神経なこと言われてないし」
「そっか。なら、いいけど」
駿の言葉にほっと息をついて、リモコンに手を伸ばした。適当にチャンネルを回していると、天気予報をやっており、気象予報士が今年の梅雨入りは六月九日になりそうだと話しているのを聞いて、「あれ」と声を上げた。
「たしか、勉強合宿って六月九日からだったよな?」
「あー、そうだな。げ、合宿中雨なのかよ」
「まあでも、どうせ勉強するだけだし。どっか外出るわけじゃないし、晴れでも雨でも変わんねえか」
「そうかあ? ただでさえ憂鬱な合宿だってのに、余計気が滅入りそうじゃねえ?」
駿が顔をしかめてそう言うのに重ねて、「きゃー、何言ってるんですかー!」という楽しそうな高い声がキッチンから響いた。
見ると、洗い終わった皿を布巾で拭きながら、みなが顔を赤くして笑っている。二人が何の話をしていたのかは、そのあとに母が言った
「だって、みなちゃんいい子だし、お嫁さんに来てくれたら嬉しいのになあ」
という言葉で、だいたい予想がついた。
「やだー、おばさんってばー」などと言いながらみなは照れたように笑う。そのあとは二人とも声量を戻したため会話の内容は聞こえなくなったが、二人の表情を見ているとまだその話題が続いていることはわかった。
「何話してんだ、あの二人……」
視線をテレビに戻しながら呟くと、「直紀さあ」と唐突に駿が言った。
「みなのこと、どう思ってんの?」
彼はテレビの画面を眺めたまま、ふと思いついたので口に出した、というようなひどく軽い口調で尋ねた。しかし口調とは反して、その内容はそれほど軽いものでもない。
「なんだよ、いきなり」
「そういや直紀って、付き合ってるやつとかいねえんだよな?」
思い出したように、駿はそう質問を重ねる。
「いないけど」
「じゃあさあ、みなと付き合う気とかねえの?」
そこでようやく、駿はこちらを向いた。感情の読めない目だが、とりあえずさほど真剣な色は見えず、なんとなく聞いてみたという調子だった。
まったく予想していなかった質問に困惑しながらも、少し考えた後で答える。
「……なんか、想像つかねえな。全然考えたことなかったし。みなはなんか、そういう感じじゃないっていうか」
ずっと駿と一緒にいるからか、彼女のその底抜けに明るい性格のためか、みなとは異性だということをまったく気にせずに付き合えた。俺の中で彼女はすでに友達として大きな位置を占めていて、みなをそういうふうに意識することに、どこか違和感を覚えた。
駿はしばらく何も言わず俺の顔を見ていた。何か言わんとするのがわかったが、けっきょく思い直したように開きかけた口を一度閉じて、「ふーん」とだけ相槌をうって視線をテレビへ戻した。
そのとき、わあ、とキッチンのほうからみなの弾んだ声が聞こえ、少し心臓が跳ねた。見ると、母が冷蔵庫から取り出したロールケーキを切り分けているところだった。
「おいしそうですねっ」
「ふふ、おいしいのよ、ここのロールケーキ。あ、そこの棚からお皿取ってくれる?」
「はーい」
二人は、すっかりうち解けたようだ。切り分けたロールケーキを皿に載せながら、母がふいに、あ、と声を上げた。
「そういえば、駿くんは甘い物大丈夫なのかしら」
「大丈夫です。むしろ大好きですよ、駿は」
「そう。それならよかったわ」
母は笑って、両手に一つずつ皿を持ってこちらへ歩いてきた。俺と駿の前にそれぞれケーキを置く。「ありがとうございます」と言う駿に「いいえ」と笑ったあとで、また、あ、と声を上げた。
「そういえば、コーヒーは大丈夫だった?」
「あー……俺は大丈夫ですけど、みながちょっと。砂糖と牛乳があると飲めるんですけど」
「あ、それならあるわよ。よかった」
母はそう言ったあとで、ふふっと楽しそうに笑った。
「なんだか、双子みたいねえ。みなちゃんと駿くんって」
ぽかんとした駿を残して、それだけ言うと母はまたキッチンへ戻った。
今度はリビングのソファに座って、ロールケーキを食べた。
俺はそれほど甘い物が好きというわけではなかったが、また、みなと駿が幸せそうに食べるのにつられて、ついどんどん食べていた。
ケーキだけで充分甘いだろうに、みなはさらにコーヒーにまで砂糖と牛乳を大量に注ぎ、見ているだけでその甘ったるさが伝わってくるようなコーヒーをケーキを食べる合間においしそうに飲んでいた。
みんなが食べ終わる頃、母が真っ暗な窓の外を見ながら
「まあ、もう真っ暗。直紀、ちゃんと送ってあげるのよ」
と俺に言った。「わかってるよ」と答えると、母は申し訳なさそうに「こんな時間まで引き止めてごめんなさいね」と今度はみなと駿に向けて言った。二人は揃って首を横に振った。
「とくにみなちゃんは女の子だし……親御さん、心配するでしょう」
母の言葉に、みなは表情は崩すことなく「大丈夫です」と短く答えた。
「今日は、本当にありがとうございました。美味しかったです」
玄関で、駿がそう言って礼儀正しく頭を下げた。みなもあわてたように彼に倣う。母は笑って「いいのよ」と首を振ると
「みなちゃんと駿くん、すごく美味しそうに食べてくれるから、私も嬉しかったわ。またいつでも来てね。待ってるからね」
二人は幼い笑顔を見せて頷いた。
俺が先に靴を履いてドアを開ける。外に出たあと、ドアを閉める前に駿がもう一度「ありがとうございました」と言った。母は笑顔で手を振っていた。
「あー、マジでうまかった」
ドアが閉まるなり、駿が声のトーンを普段通りに戻して言った。
「うん、美味しかったねー」とみなも幸せそうに同意するのを聞いていると、不思議と俺まで嬉しくなった。
「腹、苦しくね? 無理して全部食べることなかったのに」
「え? べつに無理してないよ。美味しかったから、どんどん食べられたもん」
「俺も。つーかさ、俺、あんなうまいもん初めて食べたかも」
そう言った駿の言葉はなんてことない軽いものだったのに、なぜか少し、胸が痛んだ。
「あのさ、母さんも言ってたけど、またいつでも来いよ。母さん、ああやって人にご馳走するの好きっぽいし。本当、いつでも来ていいから」
言うと、少し間があって、うん、とみなが嬉しそうに頷いた。それに続けて、「ありがとな」と駿が静かな声で言った。
門を出たところで、ふいに駿の家の方向を知らないことを思い出して足を止めると
「みなは電車だからこっちだよな。駿は?」
「あー、俺、バスだから方向逆だ」
え、と一瞬考えるような素振りを見せると、駿が笑った。
「いや、なに迷ってんだよ。俺はいいから、みな送ってやれよ」
「一人で大丈夫か?」
尋ねると、駿はますますおかしそうに声を上げて笑った。
「大丈夫だって。このへん何回か来たことあるから、道はわかるし」
「そっか。じゃあ、またな」
「ばいばい、駿」
「ああ。……なあ、直紀」
暗い中で見たせいかもしれない。微笑んだ駿の顔はひどく穏やかで、まるで別人のように見えた。
「マジでありがとな」
今日で何度目になるかわからない礼の言葉をもう一度繰り返して、駿は踵を返した。
しばし駿の背中を見送ったあとで、みなと並んで駅へ向かって歩き出した。
「……駿ってさ、やっぱあれだよな。親とあんまり仲良くないんだよな」
呟くように言うと、みなは「そうみたい」といつもの明るさは潜めたやや低めの声で頷いた。彼女が駿の家族について話すときの、独特の声だった。
「聞いてたと思うけど、駿のお兄さん、すごい人なんだ。だから、やっぱり……なんか温度差があるっていうかね。親の態度に」
ふうん、と相槌をうったあとで、ふいにむず痒い腹立たしさが這い上がってきた。
「でも駿だって、すごいやつだと思うけどな。そりゃうちの高校は福浦に比べたらレベル低いけどさ、それにまあ、確かに生徒会長とか全国模試で五位とかはすごいけどさ、でもさ、」
うまくまとまらないまま飛び出した言葉は、途中で自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。
「でも、駿はいいやつだし、勉強では敵わなくても、駿がお兄さんより優れてるところが一つもないなんて、そんなわけはないし」
とりあえずそう結ぶと、じっと俺の顔を見ていたみなが、うん、と頷いて微笑んだ。その笑顔は、これまでに見たみなのどんな表情よりも優しく、大人びていた。
「それね、駿に直接言ってあげてほしいな。すっごく喜ぶと思うから」
その声も驚くほどの優しさに満ちていて、そこに、みなと駿の絆の深さを垣間見た気がした。家族なのだと、唐突に強く感じた。それは友達に対するものとも恋人に対するものとも違う、どこまでも暖かい愛情だった。
「母さんがさ、みなと駿のこと、双子みたいだって言ってた」
ふいに思い出した母の言葉を教えると、みなは「双子?」と面白そうに聞き返した。それから、「そっか、双子かあ」となにか考えるように呟いたあとで、
「本当に双子だったらよかったのにな」
理由はわからなかった。みなの声はとても軽く、笑いの混じったものだったのに、俺はなぜかその言葉にひどく胸が軋んだ。
「……結婚すれば、本当に、家族になれるじゃん」
自分でも何を言いたいのかよくわからないまま、俺はそんなことを言っていた。みなはきょとんとして俺の顔を見つめたあと、「結婚かあ」と少し笑って、「でもね、」と続けた。
「結婚は、しない」
それは、誰が何を言っても届かないような、そんな頑なさを持った意志だった。
「本当の本当に家族になったら、なんか駄目になりそうなんだもん。もうね、いいんだ。本当の家族にはならなくていい。今のまんまで、駿だけがみなの“家族”で、それでいいの」
「駿、だけ?」
「うん。一人だけがいいんだ。家族は、多くなったら困るんだ。だって、人って結局、二人以上の人をね、平等に愛するって無理でしょ。家族だからって無理だよ。――だから、駿だって」
そこでみなは思い直したように言葉を切った。ぼんやりと自分のつま先を眺めていた視線を上げ、「ううん、なんでもない」とみなは笑った。
俺は何も言えなかった。まるですべてを悟っているかのようなみなの声に、俺の言葉など届かないことだけ、はっきりと突きつけられた。
淡々とそんなことを語るみなも、みなの考え方を何一つ理解してやれない自分も、ひどく悲しかった。
駅に着くと、みなは「ありがとう、直紀」と言ったあとで、
「一人で家まで帰れる?」
などと、実に真面目な顔で尋ねてきた。笑おうとした口角がかすかに引きつる。
「一体何の心配してんだよ」
「だってもう真っ暗だし、歩いてきた道、暗い道ばっかりだったし、心配だなあ」
ふざけるでもなく、みなは本気で心配そうな顔で「ああ、やっぱり送ってもらうんじゃなかったかなあ」などと呟いている。悪気がないなら余計にたちが悪い。
「大丈夫だから。それよりみなのほうが心配だっての。みなのアパート、結構駅から遠かったろ」
「みなは大丈夫だよ」
その根拠のない自信はどこから来るのか、やけにきっぱりと言い切る。
「直紀、気をつけて帰ってね。変な人に着いていっちゃ駄目だよ?」
「それ絶対こっちの台詞だろ」
「暗いんだから、足下気を付けて歩いてね?」
「……はいはい」
結局、その邪気のない顔を見ていると何も言う気がなくなって、それだけ返すと、みなは「うん」と満足げに笑って頷いた。
「じゃあ、また明日ね!」
「ああ。またな」
明るく笑う彼女に俺も笑みを返した。
くるりと踵を返して今来た道を歩き始める。さっき下りたばかりの陸橋を上ろうとして、ふと駅を振り返った。ほとんど無意識の行動だった。直後、驚いて階段へ踏み出しかけた足が止まる。
みなが、まだ別れたままの場所にいて、こちらを見ていた。
俺と目が合うと彼女は驚いたように少し目を見開いて、それから笑った。くしゃりと歪んだ、変な笑顔だった。ばいばい、とその唇が動くのがわかった。胸の前で小さく手を振っている。それに俺も手を振り返すと、みなは少しの間そこでじっと俺の姿を見つめて、やがて背を向けると駅の中に消えた。
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