第3話
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二日後の火曜日、中学校から帰宅した蓮は、自宅の隣の道場へと向かった。時間が早かったため、本稽古の前に一人で自主練習をするつもりだった。
蓮が使う拳法は、八卦掌。清朝末期の中国が発祥である。
幼少期から正治に教わり、今では他の中国拳法との他流試合で好成績を収めるまでになっていた。柔らかくも
蓮の父、正治は、京都の中級士族の次男だった。想い人の雪枝は茶店の娘でしかなかった。だが正治は、周囲の反対を押し切って結婚する。
その直後の一九一四年、正治は世界大戦を原因とする中国での戦闘に召集された。
戦闘終結の二日前、正治は行方不明になる。死んだかと思われていたが、二年後の一九一六年に突如として帰国した。
戻ってきた正治は、もともとうまくいっていなかった養蚕業を畳んで、八卦掌の道場を開いた。
神人の大戦での活躍による武道の流行もあり、道場の経営はどうにか軌道に乗った。だが師範かつ経営者である正治の死後は、経営は大阪の八卦掌団体に譲渡し、指導は次席である師範代が行っていた。
(結局、父さんが、どんな風に八卦掌を会得したのか聞けず終いだったな。しばらく滞在した中国で学んだって予想はつくけど。……優しい父親だった。ずっと一緒にいられると思ってた、のに)
三十二畳の道場の片隅で、蓮は両手首を回しつつ考えに耽っていた。
父親との思い出が次々と脳裏に浮かぶ。しかしもう会って語らい、思いを交わすことは未来永劫叶わない。それが死。蓮は強く実感する。悲嘆、虚無感、喪失感。様々な負の感情が心の底から湧き上がり、蓮の思考を埋め尽くす。
蓮が身に纏うのは、四肢を覆った濃紺の道着である。頭上には、「百折不撓」の道場訓が掲示してあった。
体操を終えた蓮は、軽く足を開いて中央に立った。道場には、未だ蓮以外は誰の姿もない。蓮は丹田に意識を集めつつ、ゆったりとした呼吸を始めた。
拳を前方に向けた蓮は、ふっと動き始めた。雄大な所作で、両手を身体の横から浮き上がらせていく。すぐに顔を撫でるような動作で下降させ、鳩尾の高さで三角形を作った。
ふわりと臍の所で、球を横から包む仕草をした。僅かの後に手を縦に回転させ、しだいに大きくしていく。
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両手を解いて、肩の高さをゆっくりと水平に走らせる。前面に至ると小さく屈んで、徐々に両手を降ろしていった。
(転掌八式。うん、まあまあ集中してできたかな)
蓮が小さな満足感を得ていると、ぱちぱちと、やけに速い拍手が耳に飛び込んできた。
「すごいすごい! ブラボー! いつぞやの偽泥棒くんの正体は、中国三千年の歴史の体現者だったってわけだ! いやー、面白いね! どこにどんな出会いがあるか、わかんないもんだよね」
興奮した風な、女の子の活発な声がした。
蓮が入口の木の扉に目を向けると、一昨日と同じセーラー服姿のアキナが感服したようなきらめく眼差しを向けてきていた。
アキナの右には、着物の雪枝がいつもの穏和な微笑を浮かべていた。逆隣には、見知らぬ男がいた。黒の詰襟制服と学帽をきっちりと着こなしている。
すっとした細面に、漆黒の髪。同色の瞳は、柔らかさと鋭さの両方を強く感じさせる。男の容姿は日本の男性的であったが、理知的で超然とした佇まいには、日本人だと断言できない何かがあった。
背丈は蓮と近く、筋骨隆々という表現は適さないように見えた。しかし身体つきはしなやかで、鍛えられた軍人に近いものがあった。
「どうも、何かご用ですか?」不意を突かれた蓮が呟くと、男は何かを見定めるような顔つきのまま、おもむろに口を開いた。
「緒形雪枝さん、蓮さん。自分はクウガ=フェリックスと申します。自分とそこのアキナは神人の子供で、武力を買われて警察から犯人捜査の権限を得ています」
「知ってます、有名ですから。なにせ、世界に一〇二四人しかいない神人の子供ですし」と、軽く気圧されたまま蓮は答えた。
「現在では、貴方方の父親殺しの罪人を追っています。非道な犯人を野放しにする選択肢は存在しない。悲痛な出来事を思い出させて申し訳ないですが、殺人犯の逮捕にご協力いただきたい。少しお話できませんか」
冷静ながらも力の籠もった男の声が、人の少ない道場に響いた。
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