新世界の灯火

episode 1  凍りついた覚醒



 ――――冷たい。


 背面に伝わる、ジリジリと焼けつくような冷たさ。

 このままじっとしていれば、いずれこの空間にけ込み、同化してしまうのではないか。

 そう倒錯してしまうほどに、大地へ、大気へ、少しずつ体温が流れ出ていくのを感じる。


 が、それに抗うように激しくたかぶる鼓動。

 今にも薄れゆく命の灯火を再度たぎらせるように、ドクドクと熱い血が全身を駆け巡る感覚。

 呼吸は徐々に荒くなり、玉のような汗が額に浮かぶ。

 目は固く閉ざされ、口の端から苦悶の声が漏れた。


 そして、奥底に眠る意識を無理やり引っ張りあげられるような不快感に襲われて。


 青年――白瀬灯弥しらせとうやは目を覚ました。


「っ、がはぁっ……!! はぁ、はぁ……ゲホッ、ゲホッ!」


 沸き立つ心臓と共に、酸素を求めて激しく空気を吸い込んだ。

 しかし肺を満たしたその空気はやけに冷たく、急激に喉の粘膜を乾燥させたためか反射的にむせてしまう。


 数回激しく咳き込み落ち着きを取り戻すと、静かに目を開く。

 そこには雲一つ見当たらない雄大な青空が広がり、優しい陽射しが体を照らしていた。

 そこで初めて自分が仰向けで倒れしていることに気付き、ゆっくりと上体を起こす。


「はぁ、はぁ……。な、何なんだ、いったい……」


 少しふらつきながらも両足で踏ん張り、何とか立ち上がる。

 いまだぼやける視界の回復を促すように、目元を右手で覆った。

 次第に視力が戻り始め、灯弥の両目が鮮明に外界の像を結ぶ。


 目の前に広がるのは、どこまでも続く幻想的な蒼白の世界。

 三六〇度、どこを見渡しても美麗な氷と霜が暴力的なまでに視線を奪う。

 それらは上空から降り注ぐ太陽の陽を浴び、キラキラと宝石のように綺麗な輝きを放っていた。

 

 しかし、灯弥の表情に浮かぶのは困惑の色。

 彼がこの氷の世界にせられずに済んだのは、自身が特異な状況下にあり、まだ混乱が抜けきっていないからだろう。


「こ、ここは、どこだ…………?」


 そっと、自身の首から下を見下ろす。

 紺を基調としたシンプルなデザインのブレザー。インナーは同じく真っ白なシャツだ。第一ボタンが大きく開けられている。ズボンはブレザーと同色の紺で統一されていた。

 慣れた着心地に、見飽きたデザイン。

 遅れて、灯弥は自らが通う高校の制服だと理解した。


 次に、なぜこのような場所にいるのかと記憶を辿ろうとした瞬間、


「ぐ、あァっ!?」


 ズキリと鋭い頭痛が起こり、思考が遮断される。

 反射的に頭を手で押さえ、歯を食いしばって痛みに耐える。 

 ゆっくりと呼吸を整えると、徐々に痛みが引いてきた。

 

「クッ、ソ! 記憶が……思い、出せねぇ……ッ!!」


 いかにも気分が悪そうな表情で、顔をあげる。

 高校の制服は辛うじて理解できたものの、これ以上の情報は思い出せない。


「だが、この場所は……」

 

 灯弥はもう一度周囲の景色を眺めた。

 現実離れした世界が広がっている。

 しかし、全くの見知らぬ土地、というわけでもない気がした。

 無論、このような場所に訪れた記憶は無いが、周囲の雰囲気や建造物に猛烈な既視感を覚えたのだ。


「……立ち止まってても始まらねぇし、行ってみるか」


 ようやく足腰にも力が戻ってきた灯弥はその既視感の原因を探るべく、近くにあった巨大な漆黒の建物へと向かった。

 地面には破砕したガラス片のような微少の氷が大量に散らばっており、歩く度にジャリジャリとざらついた足音が耳にさわる。


 そのまま歩みを進め、建物の真下に到着した。

 見上げてみると、やはり大きい。

 灯弥の身長の数十倍はあるだろうか。


 手で触れられる距離まで近付き、恐るおそる建物の表面を凝視した。

 表面全体に色濃く霜が張り付いているため見通しは悪いが、やはり奥の方にうっすらと何かが書いてあるように見える。


 灯弥は慎重に握りこぶしを当て、ゴシゴシとこすり霜を取り払った。

 そうして、一部だけ鮮明となった箇所に現れたものは。


『ラオケ会員限定! XRアイドルと仮想LIVEで楽し』


 という、だった。 

 視認できたのは文の途中であったが、ここまで見えれば何を書いてあるかは理解できる。


「カ、カラオケ? 何でカラオケなんかが……」


 予想外の、否、あるしゅ予想通りの結果に、脳髄を揺さぶられるような衝撃が襲う。

 その事実を拒絶するように、頭は思考するのを止めていた。


「……ッ!」


 それゆえ、先に動いたのは身体だった。

 しばらくのあいだ唖然としていた灯弥だったが、突如とつじょ何かにとり憑かれたように一心不乱に辺りの霜を片端から剥がし取っていく。

 何度も何度も。

 幾度も幾度も。

 それこそ手が赤く腫れ上がっても、その手を緩めることなく。


 しかし、灯弥が足掻く度に現れるものは。


 ――全身をオシャレなコーデで彩ったショーウィンドウ越しのマネキン。

 ――上品な筆記体で描かれた新規OPENカフェのメニュー看板。

 ――プラチナを基調とした装飾とオブジェクトによって高級感を演出したジュエリーショップ。


 ほどなくして、灯弥は腕を下ろした。

 どれほど続けていたのだろうか。

 いつの間にか右手の端からは血がしたたり、霜が取り払われた箇所にぽつぽつと赤いまだらが続いている。


 ふらふらと数歩後ずさり、呆然としながら振り返った。

 反対側、目算で数十メートル先にも、同じような建物が建ち並んでる。

 右を見ても左を見ても、世界は人工的な建造物にあふれていた。


 それらを見た灯弥は、形容しがたい虚脱感に襲われながら。


「まさか、ここは――」


 小さく、呟いた。


「日本、なのか……?」


 日本という国について灯弥は義務教育で習うレベルの当たり前の情報しか持ち合わせていなかったが、この時ばかりはその自らの知識さえ疑った。

 しかし、この疑念を解消しようと模索すればするほど、無情にもここが日本であると突き付けられる。

 灯弥の脳裏に、つい先ほどまでに見たものが走馬灯のようによぎっていく。


 一つだけ孤立し細長く伸びる謎の棒は、まるで信号機のようだった。

 所々に散見され様々な形で転がる謎の箱は、まるで自動車のようだった。

 そして灯弥の周りを取り囲む謎の黒い建物は、まるでビルのようだった。


 その全てが、日本に存在するものに、酷似していた。


「はは……。何だよ、これ……」


 足の力が抜け、どさり、と尻餅をついた。

 地面に散らばる砕氷が刺さり臀部でんぶに痛みが走るが、関係ない。


「ここが、日本……? なら、どうして…………」


 灯弥は愕然とした様子で。

 何者かに問いかけるように、ゆっくりと虚空へ告げる。


「どうして――――誰も人が居ないんだ……?」


 その問いに答えてくれる者はいない。

 彼の呟きは凍りついた都市に吸い込まれていく。


 そこでふと、自身の手から流れる血に気付いた。

 気付いたことが災いしたのか、次第に手から痛みが伝わってくる。


 その痛みを振り払うように、思考を巡らす。


「そ、そうだ! 俺の家族はどうなった!? どこか安全な場所に避難を――ぐぁッ!」


 家族の安否。

 それに意識が向いた瞬間、再び激しい頭痛に見舞われる。


「あ、頭が……ぐぁああああ……ッ!」


 それでも歯を食い縛って記憶を辿ると、朧気おぼろげながら数人の姿が思い浮かぶ。

 父と母と、小さな子供……? 

 そうだ。たしか、妹。


 懸命に大事な家族の顔を思い出そうとするが、ここまでが限界だった。

 脳内の激痛がいとも容易たやすく記憶を叩き割る。


 何も成せない無力感に、右手で頭を押さえながら毒吐く。


「くッ……俺は、家族の顔すら思い出せねぇのかよ!」


 家族の無事は何よりも優先して知りたいことだったが、それを確かめるすべはない。

 今はただ、どこか安全な場所にいると信じることしか出来ないのだ。


「これから、どうすれば……」


 灯弥は小さく独りごちる。

 八方塞がりなこの状況で、さらに不安や困惑に呑まれた灯弥の思考では、これらの問題を打開する妙案が思い浮かぶはずもない。


 しかし、このままここに居ても状況が好転することがないのも明らか。

 ゆえに灯弥は、かすかに残る理性で何とか我が身を奮い立たせる。


 目的地などない。

 だが周辺をひたすら探索していれば、まだ発見できていない手がかりが見つかるかもしれない。

 もしかしたら、他の人間と出会うことだって。


 そんな一縷いちるの望みを胸に抱き、決意を固めるように両手に力を込めた。

 右手からは相変わらず鈍痛が送られてくるが、裏返せばその痛みはまだ生きているあかしとも言える。


 改めて自らの生を実感した灯弥は、地を踏み締めるように歩みを進め。


「……よし、行くぞ。取り合えず、向こうを適当に歩い――」


 ――――瞬間、爆発音が響き、街全体に激震が走る。


 空気を揺さぶるような衝撃に驚いた灯弥は、反射的に音の聞こえた方角へ振り返る。

 遥か高所に位置するビルの屋上付近の間から、灰色の煙がごうごうと上空へと昇っていた。

 平和ボケした素人でも理解できる。

 今のは、本物の兵器による爆撃であると。


 本来ならば、絶対に近付くべきではないのだろう。

 今すぐ反対の方角へ逃げるのが最善の行動なのだろう。

 しかし。

 しかしこの爆撃は、初めて灯弥が経験する、意図しない外部からの反応だった。

 たった今、それを求めて再び踏み出そうと決意したばかりだ。

 灯弥の中で相反する思いが衝突し、発露する。



 もしかするとあの現場には、他にも生存者がいるのかもしれない。



「――――ッ!」


 そう考えた時にはすでに――足が動いていた。


 何も考えず、ただがむしゃらにひた走る。

 ガードレールを飛び越え、広い車道を横断し、最短経路で目的地へと向かう。

 急激に動かした足の筋肉がじわじわと熱を帯び始めるが、決して速度は落とさない。


 そして灯弥が一つのビルを曲がると、そこは灰の霧が薄く漂っていた。

 息を吸うと、煙たい香りが鼻腔びこうを刺激する。


 間違いない。

 爆撃があった現場はこの近くだ。


 灯弥は期待と恐怖を生唾と共に飲み込む。

 灰を吸い込まないように手で鼻を覆うと、意を決して煙が漂う空間へと足を踏み入れた。

 少しずつ煙は晴れてきているが、意識を集中させて辺りを観察する。


 そして――


「…………っ! あれは……!」


 灯弥は、出会った。


「――――ぅ、かはっ……」


 仰向けに倒れる、一人の少女と。


「お、おい! 大丈夫か!?」


 その光景を目にした途端、灯弥は急いで少女の元へと駆け寄る。


 白を基調とした襟付きのワンピース。

 そのワンピースの上には、さらに大きなシースルーのロングカーディガンを羽織っている。

 だが、それらの衣服は所々ところどころ焦げており、すすのような粉塵で全体が汚れていた。


 近付いて見ればよく分かるが、した少女は身体中に生傷があった。

 先ほどの爆撃に巻き込まれたのか、擦過や裂傷、火傷などが白い肢体したいに痛々しく刻み込まれている。


 当の少女も灯弥が近付いてきたのを察知したようで、彼へ視線を向ける。


「人、間……っ……!」


 灯弥の姿を見た少女は目を見開き、震える手でナイフを握って持ち上げる。

 揺れる刃先は灯弥へ向けられているが、彼はそれどころではない。


「おい、大丈夫かッ! まさか、さっきの爆発に巻き込まれたのか!? なら、早く手当てをしねぇと!!」

「…………」


 灯弥は少女の行動には気付かず、彼女を助けるために慌てながら思孝する。

 必死な彼の様子を下から眺めていた少女は不意に――握っていたナイフを放した。

 カランカラン、と金属がコンクリートとぶつかる小気味良い音が鳴る。


「お、おい! どうし――」

「聞い、て」


 灯弥の声を遮るように、少女は口を開いた。


 鈴の音のように凛とした彼女の声は、優しく鼓膜を振るわせる。

 その静謐せいひつな声音は、あれだけ狼狽していた灯弥の心を不思議と落ち着かせた。


 少女はかすれる喉で、言葉を続ける。


「お願い、が……あるの……」

「……あ、ああ! 何だ? どこか痛むところでもあるのか!?」


 灯弥が了承の意を示したのを受け取ると。


 少女はそっと、今にも壊れそうな優しい微笑を浮かべて、


「私を……ころ、し……て…………?」



 静かに、そう告げた。



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