桃源郷をのぞむ
* * *
白く細い指が古い本を静かに撫でる。
手元を照らすろうそくの明かりは読者の耳を彩る短冊形の硝子の耳飾りに反射して周囲に幻想的な模様を映していた。
「晋ノ太元中、
『主人、何を読んでいるのですか』
漢字だらけの書の上に質問文が置かれた。
レトロカメラである。
「邪魔しないでよ」
本からは目を逸らさずに少年が紙を突き返す。突き返された紙をまた漢字の上に乗せるレトロカメラ。また突き返し、また乗せる。
「あーもう! 読書の邪魔しないでよ! 知りたがりめ!」
『私の祖国の話をしつこく聞いてきたのはどなたですか』
完璧な論理が白い紙の上でおどる。
少年は何も言い返せない。
「ついさっきの事を持ち出して……」
『主人、何を読んでいるのですか』
一番最初の紙を再度突きつけた。
少年はもう言い返せない。
「桃花源記。桃源郷に迷い込んだ漁師の話」
『それを読んで何になるのです』
「いつか桃源郷に行こうと思って」
真剣にそう言い放つ少年。
一瞬沈黙が起こった。
『……熱でもあるのなら今日は休みますか?』
「馬鹿!」
気まずそうに紙を差し出したレトロカメラに頭突きをかます少年。
「桃源郷は本当にあるの! 君みたいな西洋出身には分からないだろうけど!」
『確かに……楽園やユートピアは存在しません。何故桃源郷はあるのですか』
「一説には、桃源郷は過去の中国だとされる説がある。昔は物凄く平和な国だったんだよ。それはまるで楽園と称される程に」
『……、……本当に熱は無いんですよね』
「無いってば! ここにちゃんと行き方が書いてある」
『……期待しないで貴方の帰りを待っていますよ、主人』
「待って!」
その台詞だけを机の隅に置いてそっと離れようとするレトロカメラ。
その腕をがっしりと掴んだ。
「ここまで来たら最後まで付き合ってもらうよ」
あからさまにげんなりしたような態度を見せるレトロカメラ。
『……勉強は余りしたくありません』
「話を聞くだけなら楽しいから。ね?」
しぶしぶ少年の傍に寄るレトロカメラ。
少年が意気揚々と語り始めた。
ろうそくのろうが垂れて川のように流れていく。
「昔々、晋という国に、太元中という漁師がいた。ある日彼は谷川を船で登ってたら迷子になっちゃったんだよ」
『あらら』
「そしたら突然桃の木の林が両岸いっぱいに現れた。そこに他の木は無い……ただひたすら桃の木ばっかり」
『突然……?』
「怪しんだ漁師が取り敢えず林の終わりを見てやろうってことでしばらく進んだらなんと山に辿り着いた!」
『山? 桃源郷ではなく』
「そこには小さな洞穴が開いていてね、ぼんやりと光が漏れ出している。なんだか知らんが衝動に駆られた漁師は船を捨てて洞穴に入ってしまった」
『洞穴……。はぁ、一体その漁師はどこへ行く気なんですか』
「極めて細い狭い道だった。人が一人しか通れないような道」
『……』
「そしたらいきなりぱっと視界が開けた! そこに広がっていたのが桃源郷だったって訳だ」
沈黙が流れる。レトロカメラが白い紙に書き出すまで、まるで時間も止まったようだった。
『何が言いたいんですか』
「分からないの? よく思い出してみてよ」
レトロカメラの大きなレンズが少年を見つめる。
「よく似ているねぇ。命からがら逃げ出したあの日の夜に」
『……』
きっとそこに人の顔があるならば、それは不愉快に歪んだことだろう。
「あの頃は桃源郷をお互い求めたものだ」
「ねえ。レトロカメラ?」
* * *
「狭い道だから気を付けて」
「川に落ちないように」
暗い道を慎重に進む。ナナシくんが先を行き注意すべき所を逐一言ってくれるから良かったけど、もしひとりぼっちだったならばどうなっていたか知れない……。
始めは人が一人やっと通れるような細い道がしばらく続いたが、それを過ぎると道の脇、下の方で川が流れているのに気が付いた。
青く煌めくそれはするすると流れ、神秘的だった。
「綺麗……」
「その水が池に繋がってるんだ。とても美しいんだ、水面が鏡のようでね。とても透き通ってる」
「へえ」
「とても綺麗な川だよね。……池は人を喰うのに」
「……」
「行こっか。川が見えればもうすぐだよ」
本当に意地悪な座敷童。
トンネルは続いた。不安になるほど長く、気付けば生け贄を欲する池のことを忘れていた。
しばらく歩くと向こうで眩いほどの白い光が零れているのに気が付く。
「あそこ?」
「うん、行こう!」
二人走り出した。
光に飛び込むとそこにあったのは楽園かと疑うほどの美しい場所。
決して広くはないけれどその中央には美しい池があった。
これが……池。
「ね! 言った通り綺麗でしょう?」
「本当に……綺麗。こんなの絵本でしか見たこと無かった」
「大いなる神秘は美しく、それ故に人を惹きつける。薔薇に棘があろうと愛でるように、その水底に幾つの骨が埋まろうと僕達はこの美しさに感嘆するんだよ」
酔ったように饒舌に語るナナシくん。
またその話だ。
そろそろ我慢が出来なくなってきた。最初は冗談だと思ってついてきた。
だから何回か繰り返されるその「生け贄話」も無視できたし、実際してきた。
だけど……ここまでくるといよいよおかしい。
まさか本当に……。
多少のリスクはあった。
でも聞かずには居られない。
私はナナシくんに向き直る。
「……あのさ」
「何?」
「生け贄の話は……本当なの?」
ナナシくんが目を見開く。――驚きで、ではない。興味の見開きだ。
沈黙が、流れた。
青い硝子の耳飾りだけがちろちろ揺れる。少し近眼が入ってるせいで余りよく見えないけど、きっと水みたいな模様が入ってる。
「あれ? 嘘だとか思ってた?」
「いや、いやいやいや、普通そうでしょ。それって殺人じゃない? そんな事してまで力とか居場所とか手に入れたくない」
「……」
「私は、私はただ許せなかっただけ。だけどそれだけ。他は何にも変わらない! ちょっとハブられただけでそれ以外はいつも通り。力とか居場所とかそういうの以前の問題! だから、だからごめんだよ!?」
「……」
「こんなの冗談だし。……確かにちょっとクラスメートの事少しムカついてるけど、だ、だからって殺したいとかそういうの思ってないし!」
「……」
口早にごたくを並べる私を表情を変えずにじっと見つめるナナシくん。
何て言うか、凄く不気味。
「あーあ。良いや、私帰るから。ほいほいついてって馬鹿みたい。危うく殺人者か何かになるとこだった。……だ、だからもう学校行かなきゃ。……、……だから、その、じゃね!」
踵を返して帰ろうとした。
――しかし、腕を掴んで引き止める者がいた。
ナナシくんだ。
「今更許される訳ないじゃん」
「ヒッ……!」
「君は妙な勘違いをして困るな」
光を反射しない黒耀石の双眸が鈍く私を見つめる。
「僕は気に入らない人間を餌にすると言ったんだ。それで君に力を与えると言った」
池の傍にずるずると引きずられていく。
ナナシくんの手を引っぺがそうと必死に手をかけたが力が強く、おまけに痛覚も通じていないらしく、全然離せない。
「ヤ……、ヤダ……」
本当に怖いと人って声が出ないんだな……。
叫んで助けを呼んだ方が良いのに喉が詰まって全然声が出ない。
きっと一回声が出ればその後は簡単なはず。それなのに……。
出会ってすぐの会話が頭の中でこだまする。
『要するにはさ、少数派の正義の味方なんて居ないって事だよね』
う、あああ……。
『じゃあ逃げちゃえば?』
も、もしかして、だけどさ……。
もしかして……。
「全く、これだから人間は自分勝手で困る。自分でまいた種を人のせいにするのは君達人間の常套手段だ。――そう言って僕らのことも除け者にした癖に」
「し、知らないよ……!」
「もう遅いんだよ、リホ。池を前にして後戻りなんてもう出来ない」
「イヤだよ、ヤダヤダ……あっ!!」
腕がぐいと引っ張られた。
ナナシくんが横に滑る――違う、私が横に向かって傾いてるんだよ。倒れてるんだよ。
「いらないのは、君の方だ」
妙にゆっくりと時間が流れていくその間、彼の硝子の耳飾りの中で川の飛沫が光を反射して煌めいているのを見た。
――――――どぼん。――――――
「ん? レトロカメラ、何か金魚鉢にでも落とした?」
『知りませんよ』
山積みになった彼の言い分の上に乱雑に返答の台詞が放り投げられた。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます