弐
一
ここへは来たくはない、というのが正直な思いであった。だが、同時に仕方がないとも思わざるをえない。そもそもは自分が原因でこうなったのだと、なんとなく分かってはいてここにいる。
学校の敷地の中にある、最も高く、校舎から離れている木の上で、退屈だな、と呟いた。
責任を感じてここにいて、だが退屈だ。このままでは責任を感じる必要性が失せていく可能性があった。
もう桃色の花は咲き盛りを終え、涛の下には大量の花びらが落ちている。それにしてもなぜここには、そんな同じ木をたくさん植える必要があるのか、分からなかった。春しか咲かない花ばかりにこだわり、さらになぜ増やすのか。もっとも彼が好きなのは、花自体ではなく、力強く生きる、木なのだが。
涛は自分の背の何倍はある木の、真ん中より少し下のところの太い枝に座っている。視線は校舎に注がれ、中にいる同じくらいの歳の子供を見ている。真ん中から見て上も下も、それぞれ二学年あったはずだ。つまり真ん中は第三学年となる。そこの者は入学してから五年後、必ず徴兵され、そして、父のように送られていくのだろう。『国のための栄誉』という形で隠しながら。
涛は、知っている。国がどんな手を使って民を従えさせているか。白蛇から聞いたのだが、何であれ、おのれの利を望む。それと権力を利用して王は民を隷従させている、と。隷従の意味はよく分からなかったが、嫌なことだということは分かった。
里には若い男が徴兵と遠征のためいなくなったが、そんなことはどうでもよかった。勝手にうわさをしながら少年を見ようとしない彼らなど。
そうしながらも小一時間ほど経とうとしたときに、一瞬だけ空が暗くなった。あの大鬼に襲われたときも、彼女がこうしていたらしい。何が目的かは知らないが。
それを見て、涛は木から下りていった。左足を比較的太い枝の根元に置き、右足もそうする。だが地面につく前に、いつの間にかすでに下にいた大鷹がしびれを切らして、手を離して落ちるように催促したのでその通りにしてやった。
「あんたさ、あそこから落ちても平気なんじゃないの?」
自分の身長くらいの高さから落ちた彼を見下ろしながら、鷹は言う。あの大怪我から生還したので、あれくらいは平気だろうと思って言ったことなのだが、人間の体にはいささか無理がある場所だった。涛の背の二倍はあるところで、足を壊しても不思議はない。
「ばか言うなよ」
そう言い返しながら、彼女の足元にある包みを手に取る。
「やっぱり、あなたたちっておかしいわよねー」
リムがのんびりとした口調で、校舎からの視線を木で阻みながら、包みを開いている涛に言う。
「別にさ、こんな場所で食べなくてもあなたたちにある『家』っていうところで食べればいいでしょ?なのにその『弁当』っていうので、どこでも食べれるようにしてるじゃない。何か意味があるのかしら?」
そんなことを言われても答えようのない疑問は、いつものことであった。
「知るかよ。俺は、ばあちゃんが作ってくれているこれを食べてるだけ」
早くも半分が空になっている弁当をはしでさしながら、口にものが詰まったまま言う。でもねー、と腑に落ちない彼女は、やはりやめた。この少年に人間の当たり前は通じないのだと思い出した。その代わり、妖怪らの当たり前はいくらか通じる。たとえるなら、人間に対しての見解や、小難しい話など。
「あなたのそれを作っている人も物好きね。毎日板に物乗せて切ってんのよ?それで丸いものに入れて火にあてる。かなり体にきてそうなんだけど」
「そっか……」
涛は隠すように、静かにそう呟く。当然それは彼女に聞こえても、意味までは分からない。人生はそう長くはないと言われているこのご時世、そして兵力に金を注ぐ国は老人など相手にしないだろう。兵にもなれず、田畑を耕してもあまり役に立たないと役立たず扱い。その扱いを、よく思っていない人々は多い。だが神の意志だと国が言えば、なら仕方ないと彼らは脱力していく。
弁当を包みなおしながら、またぼんやりと、ひらめいた物騒な言葉を呟いた。
「国家転覆…」
だがそんなことはありえないのだと諦める涛はいつの間にか、どうすれば祖父母を助けられるか、という考えに浸っていた。
そして彼を引き上げたのは、体がぐいと持ち上がっていく感覚だった。周囲に鐘が鳴り響いている。たしか、この日の最後は教練だった。じきに揺れる体が安定してくると、首が絞まっていることに気がついた。苦し紛れに見下ろすと校庭になだれ込んでいく粒が見える。次いで逆に、上を見上げても空しかなかった。
全身にぶつかってくる風に体を冷やしながら、苦しそうに足を使って足掻く涛の揺れを感じて、リムはやはり貧弱だなあ、と思う。この程度なら、白蛇ならしばらくは耐えられたはずだ。
「はいはい。下ろせって言うんでしょ?ちょっと待ちなさいよ。場所探すから」
数秒間、涛は地に足がつかない恐怖よりも、別の恐怖に喘いでいた。
校舎の校門側には、海のような入り江があり、そこは普段から遊び場や憩いの場として使われていることが多かった。幸い昼間、そこには人気がなかったのでリムはそこに涛を下ろした。彼はしばらく何も言わずに、地面に手をついて息を整えていた。
「いきなりはねえだろ…」
その体勢で彼女をきっと見上げても、やはりあるのは無表情の鷹の目。
「あら?一応言ったわよ。あんたが無視したんじゃない」
そういいながらも視線をあちこちに回すのは、警戒している証拠であろうか。立ち上がって、そんなことは知らないと言えば、リムは簡単に流してしまった。
「まあ、私は気にしてないけど、ちゃんと話は聞くべきよ。白がそんなことされたら、どう怒るか」
それだけ言い残して、リムがまた翼を広げた。鷹の姿は一瞬だけ夜をもたらし、水の上に渡っていく。恐ろしげな姿は彼方へと消えていく。
自由、か
少年は、人間なんかに生まれなければ、などとぼんやりと考えていた。そうすれば、今こんな苦しみは無かったのかもしれないのに。だが所詮、ありえないものだ。
どうやって明下の姿を見ていようかと、あたりを見渡したが、重大なことに気がついた。手元にあるべきはずのものがない。おそらくは、宙にいるときに持っていたはずはないので、あの木の上にきっとあるだろう。だから彼らが帰るのを待って、取りに行かなければならない。だから隠れる場所を探さなければならなくなった。見つかるのも見られるのもごめんだからだ。
バンバン、と銃を撃つ音と教師の怒鳴り声は、学童の上げるいくつもの声によくまぎれて、入り江の水の中まで聞こえていそうだった。それはつい先日から始まった光景で、ここでは見られないが、今でも海の上では大砲が鳴っているらしい。
国から国民全員の総力戦で戦うよう命令が出されても、開戦の放送が学校の校庭中に響こうとも、その国民のうちに入れられている涛にはどうでもよいことだった。
〈言ってたっけな…争う理由もわかんないって〉
友達の言っていたことを自分の意見にして、言い聞かせ、見つからず、苦にならない場所を探す。
いくつもの土のうで作られた壁に、明下は隠れながら重い銃を握っていた。服は国民服であるため少しやりづらい。そして教師の号令と同時に壁よりも頭を高くして、すぐに引き金を引く。すると重い衝撃が彼を押して、ふらつかせるが、すぐにまた壁に隠れる。
そしてまた、号令が出され、隣の狩本が同じことをする。それを二、三回繰り返すと次はまた別の号令が出される。
教練というものは週に一回だけ行われるが、それだけでももう全ての力を使い果たしてしまう。体が慣れてしまったのか、初めよりかは平気だが辛いのには変わらなかった。
四、五十分でそれを終えると、狩本が明下に話しかけながら教室へと戻っていた。
「あー、しんどかった」
軽くうなだれている彼は、体力があるはずなのだが、こたえるらしかった。
「そんなに必死になって、狩本はさ、兵士になりたいの?」
なぜこんなことを続けるのか、明下は気になって仕方がない。外国がどうとか国は言っていたが、だからといって争いに持っていく必要はないのでは、と思っているのだ。
「親父が今、戦ってるんだぜ?その子供が逃げ出したら恥ずかしいだろ」
自分の意思ではないような言い方だ。それを聞きながら教室の入り口が目の前にある。
「そうかな…」
今、父親がいないということは、生きてるかどうかさえも分からない。今このとき戦っているのだろうか。戦死したら国が伝えてくれるらしいが、国がそれを隠しているとしたら、どうなのだろう。それで今、いないということはすでに死んでしまっているかもしれない。
姿が見えない、から
不安に駆られるのだ。
そうしているうちに入り口から一番離れている席に着くと、すでに皆がいそいそと鞄を開いて机の中のものを滑らせていく。余計なことは口に出さなくていい、これが当たり前となっている。だからそれに従い、明下と狩本もそうしていく。
そうしているうちに教師が戻ってきて、今日の教練についての評価を話し始める。それに合わせて教室の生徒たちは背筋を伸ばす。
だが完全に伸ばす気にもなれない明下は視界の隅で、閉め忘れたのであろう窓から校庭をのぞく。するとそこには教師たちが崩れた土のうを作り直し終えた向こうに、誰かがいた。見たことのある体格で、それは奥へと進んでいき、この敷地内で一番高い木に上り始めて見えなくなった。
誰だろう、と思いながらもその人影は再び現れることはなかった。
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