【天空のカヴァルリー外伝】〜ビーの恋愛相談室〜
瀬道 一加
プロローグ:チャップマン氏の相談
第1話 コーヒーは好きか
口元に寄せたカップから、ほわり、と鼻腔に温かく香ばしい香りが届く。
えぐみの無い、それでいて気の引き締まるような苦みと酔うような甘さを兼ね備えた上品な香りは、いつもの口寂しさを紛らわすだけの安物の無遠慮な匂いとは大違いだ。そんな、オフィスで無料で振舞われているものであったとしても、この種の飲み物は高揚感をもたらせてくれる。気を利かせて手ずから淹れてくれた高級豆の一杯なら、尚のこと格別である。一つ深呼吸して、その芳香だけを堪能する。
寄せた唇が触れる白磁のカップのつるりとした感触も、その味わいを引き立てている。立ち上る強い芳香を含んだ熱気と共に、微かに褐色の熱湯をすすれば、口一杯にその透明で魅惑的な味わいが満ち渡り、コクリと嚥下すれば、香ばしい苦さと甘さが喉の奥から鼻腔を満たした。
吸った分の呼気を、満足げなため息で吐き出してからビーは言った。
「で?相談って何。」
組んだ自分の足とその向こうにある低いテーブル越しに、正面のソファーに座る人物と目を合わせてから、ビーは二口目をすする。
目の前の人物は、慇懃にゆっくりと頭を下げて低い声で言った。
「まずは、時間を割いてくれたことに改めて感謝する。」
「ああ、いいよ、それは。」
畏まった態度の相手に対して、砕けた調子を変えずに、ビーはずずず、とコーヒーを啜り続けた。
「コーヒー美味いし。」
「そうか。それは良かった。」
特に感情が込められていないような声音で言いながら頭を上げたのは、数ヶ月前に初めて知り合った同僚である。同僚、とは言ってもビーからしたらかなり年上の、オジサマと呼んでいい年齢の男性だった。
ビー–––本名ビショップ・ブリッジス–––は、いつでも、作業効率を第一に考えて作られた制服を身に付けて歩き回っている技術者であった。ついでに振る舞いも淑女のそれとは程遠いものだったが、それでも二十代半ばの女性である。
そんな彼女が、ほぼ個室になっている、オフィスの一角にある応接間で面識の少ない男性と二人きり–––となれば、通常であれば警戒心のかけらでも抱こうものだが……ビーは今、そんな必要性を全く感じていなかった。
◆◆◆
男の名前は、デミートリー・チャップマン。数ヶ月前に、ビーの所属する空挺軍の特殊部隊に配属されてきた。
およそ半年前、特殊部隊は任務の遂行時、軍に敵対する勢力により全滅の危機に瀕し、隊長は瀕死の重傷を負った。一時は部隊解散も囁かれたが、彼は何とか死の淵から這い上がり、リハビリを経て再び隊長としての職務に戻る。そのタイミングに合わせて、それまでは極秘であった特殊部隊の存在は–––敵対勢力による襲撃の件で既に露わになってはいたが、改めて–––公のものとされた。と同時に、最低限の人数しか所属していなかった隊も、少しずつ人員を増やしていく事になったらしい。
以前から特殊部隊の主要機体技術者として貢献していたビーだったが、その後も引き続きその職務を任され、今では後続の育成も業務の一つだ。
教育に関しては、本人は全く向いていないと思っているのだが。
30代後半かと思われるチャップマンは隊長補佐官として、増えてきた人員をまとめるための、部隊内のいわば中間管理職として着任した。もとからいた人員に年若い者が多かったため、ある程度体裁を保つ為にそれなりに年配の者を新たに配属した、とのことだ。
厚い胸板のがっしりとした大柄な体躯だったが、育ちが良いのか振る舞いに粗野なところが少しも無い。きりりと引き締まった印象を与える顔立ちの、なかなかの美丈夫だった。短く刈り込んだ濃い灰色の髪に色素の薄い肌、目の色はくすんだ青色。よっぽどのことでなければ動じなさそうな、落ち着いた雰囲気なのだが……
この男、とにかく堅かった。
部隊への着任当初から、終始無表情。少しも表情を崩さず、笑ったところはまだ誰も見たことが無い。
人当たりが悪いわけでも無く、声も荒げず受け答えは丁寧なのだが、自分からは話しかけず、話しかけられても淡々と話し、冗談の一つも言わない。
飲みに誘われても、まだ一度も参加していない。
就業態度は真面目、と言えば聞こえは良いのだが、もとからの人員も同時期に加わった者たちも「何を考えているか分からない」と、打ち解けられずに困っている者が多かった。入隊して数ヶ月、そろそろ馴染んできても良いものだが。
普段特に周りの人間関係に興味を示さないビーは、そんな話を聞いても正直どうでも良いと思っていた。
仕事はしっかりしてるようだからほっといてやれよ、と。自分が愛想を振りまくタイプの人間では無いので、それを他人に強要するべきだとも思えなかった部分が大きい。
そんなだから、チャップマンがビーの作業中に自分から声をかけてきた時は驚いた。
「ブリッジス殿。」
「はい?」
職務的にあまり関わりのない相手に急に、しかも階級名でも職位名でも無い敬称で声をかけられ、ビーは思わず機械整備の手を止めて聞き返すように声を上げてしまった。
チャップマンは後ろ手を組み背筋を伸ばした姿勢で、顎を引き、屈んでいるビーを見下ろしていた。目を丸くしている彼女を真っ直ぐ見据えて続ける。
「折り入って相談があるのだが、業務後時間を頂けないだろうか。」
業務後、と言うことは、私用である。
何でほぼ言葉を交わしたこともない自分に?と考えながら、ビーは間の抜けた声で返答してしまう。
「はぁ……」
「本日、オフィス横の応接間で良いだろうか?」
「はぁ……」
「感謝する。それでは業務後に。」
力強く一つ頷いてそれだけ言うと、チャップマンは踵を返して去って行った。
「しゅ、主任!!チャップマン補佐と仲が良かったんですか!?」
唖然として珍客の後ろ姿を見送っていると、やはり数ヶ月前に入隊した若い技術者が慌てたように声をかけてきた。人懐っこい性格で誰より早く馴染んだ若い男子だ。やり取りを見ていたらしい。
「いや全然。」
「ままままさかあああ愛のここここここくは」
「アホか。」
「いてっ。」
「仕事しろ。」
狼狽える後輩の頭にあまり遠慮なく手刀を食らわせて、ビーは考える。
愛の告白……?
いや、無いな。
秒で結論付けて、じゃあ何だろなと首を傾げつつ、ビーは作業を再開した。
◆◆◆
周りの人間関係には特に興味が無かったが、ビーは自分が鈍いわけでは無い事を自覚している。
今まで仕事中に彼からそれらしい視線は感じた事は無かったし、さっき話しかけられた時に、そんな「色」は伝わって来なかった。今回のお誘いが、自分に対する性的なアプローチでは無いと言う事は、ビーの中では既に確定事項である。
もっと言えば、ビーの左の耳にいつも付いている金と銀の二つの小さなフープピアスが、機械をいじる職業柄付けておけない彼女の、左手の薬指の指輪代わりなのだと言うことは、隊員の間では周知の事項だ。世間話にあまり積極的では無いチャップマンは、それを知る機会はもしかしたら無かったのかもしれないが。
チャップマンは、「相談」と言った。
で、あれば、純粋に何かの相談なのだろう。
それが何かは見当がつかなかったが。
短い期間でも解る、あの真面目な人柄である。相談を口実にあわよくば……なんて考えているとは到底想像が出来なかった。付き合いは短いが、あの隊長の補佐を任されているのである。こちらを陰で陥れるような卑怯な真似をする人間では無いという程には、信頼が出来ていた。
その為、ビーはなんの心配もせず、業務後一人で応接間を訪れた。むしろ、あのお堅い男が普段全く接点の無い自分の様な小娘–––まだ自分の資質を理解してもらえる程付き合いがあったとは思えない–––に、一体何を相談してくるのかと興味津々で、楽しみに思ってしまったぐらいである。
「急に呼び出してすまない。突然だがコーヒーは好きか。」
着くなり言われて、面食らう。まさかコーヒーの語らいの為に呼ばれたのだろうか。だったらあんまり適任では無いが。
「まぁ、普通に飲むけど。」
「うむ。詫び代わりと言ってはなんだが、良い豆を持って来てある。準備するので待っていてくれ。」
「はぁ。」
どうやら相談料として、美味しいコーヒーを淹れてくれるようである。律儀だな。コーヒーが相談内容じゃなくて良かった、と、ビーは胸を撫で下ろした。
応接間の近くにある給湯室からゴリゴリいう音が聞こえ、芳しい香りが漂って来てから程無く、チャップマンはコーヒーカップとポットを乗せたトレーを持って戻ってきた。わざわざビーが来るのを待ってから豆から挽いて淹れた上、ソーサー付きのカップに保温のきくポットまで用意していたあたり、当人は非常にマメである。
しかし淹れてくれたカップを持ったら取っ手がじんわり温かい。事前に温めてあったらしい。もてなしのこだわり具合に、ビーは感心しつつもうっすら引いてしまったのだった。執事か?お前は。とか、相手の似つかわしく無い逞しい体躯を見て考えながら。
◆◆◆
「それで、相談内容は?あたしが助けになれる内容だと良いんだけど。」
気を取直して、びっくりするほどすんなりと身体に染み渡る上品な味わいを有り難く味わいながら、ビーは言った。流石、良い豆は違うようだ。今まで飲んだどんなコーヒーよりも、身体が取り込むのを喜んでいる気がする。
「うむ。むしろ、ブリッジス殿でなくては相談出来ない内容だ。少なくとも、私が知る限りでは。」
「あたしじゃ無いと?」
相談出来ない?と、ビーは訝しげに眉根を寄せた。コクリと、褐色の液体をもう一口。ああ美味い。出来れば丁度いい熱さになっている今の内に、全て味わってしまいたい。
「人伝てに聞いて、申し訳無いのだが……」
チャップマンは肩幅に開いた膝の上に肘を乗せて両手を組み、少し身を乗り出すようにしてビーをじっと見つめた。そして、ほんの少し言い淀んでから言う。
「貴女には、恋人が二人いると。」
「あぁー……」
そう言うことね。と、ビーは納得して、残りのコーヒーをぐいと飲み干した。
どうやら、このお堅い部隊長補佐官は、ビーの二つのピアスの意味を、ちゃんと知っていたようである。
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