第11話

図書室からでて、大きく息を吐いた。

手に、冷たい感触が残っている。

それを拭いたくてスカートで擦る。

硬いボールがバットに当たって大きく空を飛ぶ音が遠くから聴こえる。

カズの、音だ…そう思って私の足はグランドに向かう。

グランドに散らばる白い人影。

その中でもカズのシルエットはすぐに分かる。

小さい頃からずっと目で追っていた、その姿形は、見間違えることなく、私の目の中に飛び込んでくる。

フェンス越しにその姿を見つめていると、大きく弧を描いた白球がこちらに飛んできた。それはフェンスに当たり、私の足元に落ちる。

走り寄ってきたのは、カズだった。

少し手前で立ち止まり、私を認める。

「何、してんの?」

カズは小さい頃から照れ臭いと、笑いそうになるのを必死に抑えながら、ぶっきらぼうに言う。

「ううん。通りかかっただけ。」

「あ、そ。」

ボールを拾い上げ、もう一度私の顔をチラリと見て、カズの動きが止まる。

「何かあった?」

カズは大体において、鋭くて、私に何か嫌なことがあるとすぐに気がつく。私の気持ちには気がつかなくても。

「ううん、なんにもないよ。」

私は、笑顔を作って答える。でも、本当に、カズの顔を見たら安心してしまった。

遠くでカズを呼ぶ声がする。大きく返事をして、カズが私の方をもう一度振り向く。

私は、しっしっという仕草をして笑ってみせる。

カズの切れ長の目が私をじっと見て、それから背を向けてグランドに戻って行く。


次の日から、私はあからさまに前田くんを避けて過ごした。休み時間は逃げるように教室を離れた。一度廊下で鉢合わせをして、私は思わず回れ右をしてしまい、後ろから前田くんがクスリと笑う声を聴いて、恥ずかしくなった。

けれど、どんなに不自然でも私はもう、二人きりになることがないようにしよう、と決めていた。


翌週には梅雨に入り、テスト週間が始まった。雨の音と共に、部活のないカズやナツたちと帰ることが出来る日々にほっとしていた。バスで前田くんと乗り合わせても目も合わせようとしない私を、ナツやカズが不思議そうに見ていた。

中間テスト最後の日、図書室に本を返しに行くと後ろから声をかけられた。

「大島さん」

前田くんの声に一瞬体が固まる。木のドアに手をかけたところで、このまま回れ右をして帰ろうかと考える。

「大島さん」もう一度声をかけられる。

ゆっくりと振り返る。

雨が降りそうな重い空を後ろに背負いながら、前田くんが立っていた。その目が少しほほ笑んでいる。

「ひどいなあ、その態度。」言いながら、どこか楽し気にしている。確かに私の態度はひどいかなあと自分でも思っていたものの、彼の全く傷ついている様子のない気配が余計に私をたじろがせる。近づいてはいけない、と頭の中で警報音が鳴る。

「何?」

「ううん、何でもないよ。その本、返すなら僕が手続きしておこうか?」

私は手元の本を見つめる。このまま図書館に入って、また人気ひとけがなかったらと思うと預けてしまった方がいい気がする。

「じゃあ…」そう言って本を渡そうとすると、その手をぐっと掴まれる。

「ちょっと…」思わず声を出すが、急に掴まれたことに驚いて、その声は思いのほか弱弱しく漏れるだけだった。

「ねえ、ちょっと話さない?」

手をふりほどこうとするが、女の子みたいに華奢だと思っていた前田くんは意外と力が強い。やっぱり男の子なんだと感じる。

「僕、この前、曲がりなりにも勇気を出して、君に言ったんだ。それなのにその態度はあんまりだと思うけど…」

はっとして、その顔を見つめると、少し寂しそうに弱弱しく微笑む。けれど、その手は有無を言わさない強さがあって、私はやはり恐怖が先に立つ。

すると、グイと腕を引っ張られてそのまま図書館のドアの中に引き込まれる。

「ちょっと…」声をあげるがその手はふりほどけない。後ろ手に木製のドアが閉まる。中にはやはり人気ひとけがない。

声を出そうとすると「しっ」と言って前田くんが指を口にあてる。その冷たい指に背筋が凍り付く。近くで見るその瞳は茶色くビー玉みたいで、人間のものじゃないみたいだった。

「ここには内緒の本があるんだよ…」

前田くんが目を離さずに言う。

「おじい様に聞いたんだ。おじい様だけが知ってる内緒の本」

茶色い瞳の奥に何かが見えるような気がする。段々と意識が遠のいていく。

「内緒の本…?」かすれた声が出る。

「そう…」じっと、その目は私から離れない。

瞳の色に茶色と…何か違う色も混ざって…考えながら耳が体から切り離されていく。

その時「ハルー」と呼ぶ声がドアの外からした。

ナツの声。帰る前に図書館に行くと言っておいたから迎えに来たのだろう。ぱっと前田くんの手が離れる。

「じゃあ、この本返しておくよ」そう言って私から本を取り上げ、前田くんはさっと図書館のドアを開けて私を外に押し出した。

「あ、ハル、いたいた。」ナツが近づいてくる。そして私の顔を見て、「ハル、どうしたの?」心配そうに覗く。

「ううん。何でもない…」私の手首には掴まれた感触が残っている。冷たい氷をあてられたような感触。

「でも、顔、真っ青だよ…何かあったの?」

「え…?」

耳の奥でドクンドクンと血液が波打つように流れている。


次に気が付くと、目の前に見慣れない天井があった。

「ハル…」名前を呼ばれて、そちらに目を向けるとそこにカズの心配そうな顔があった。

カズの顔を見ると、気持ちが緩んでいくのが分かる。

「私…」

「図書館の前で倒れたって言って、ナツが連絡してきて…」

「ハル、良かったー」横に安堵するナツの顔が並ぶ。

「大島さん?大丈夫?」保健室の先生がカーテンから顔を覗かせる。

「はい。すみません。」

「貧血かしらね。」心配そうに小首をかしげて一応病院に行ったほうがいいとアドバイスをくれる。

外はいつの間にか雨が降り出していた。早く梅雨があけたらいいのに、とナツが不平をもらしながら歩く。カズは私の横に並んでこちらを窺っているのが分かる。

「何かあった?」

「うん…」傘からぽとぽとと滴が落ちる。足元の水たまりをよけながら答える。

「誰かと一緒だった?」前を歩いていたナツが振り返りながら聞く。振り返った拍子に、傘のしずくが弧を描いて下に落ちる。

「なんかね…」

私は数日前にあったことを二人に話した。「えっ告白されたってこと?」とナツが大きな声を出したが、私はそういうことじゃなくて、と前田くんから感じた違和感を伝えたくて、一生懸命説明する。言葉そのものを聞いたら確かに告白だけれど、私自身はなぜかそういう風に感じなかったこと。掴まれた手が冷たかったこと。けれどうまく伝えることができない。ナツは話を聞くたびに「えっ手を掴まれたの?」「えっ今日も?」と声をあげる。「内緒の本」のくだりは何となく言ってはいけない気がして黙っていた。その横でカズは黙って聞いていた。

ナツは声を上げながら聞いていたものの、私の顔色がやはり優れないのを見て、心配そうな顔をする。

「ねえ…要は付きまとわれてるってことじゃない?」

私たちは来たバスに乗り込んで、並んで座っていた。

「付きまとわれてるってほど大げさな感じでもないけど…」私は手元に視線を落とす。閉じた傘から滴が落ちて、足元に水たまりを作っている。

その時、ナツが私の頭ごしにカズの肩を思い切り叩いた。

「いてっ」カズが声をあげる。

「んもうっしっかりしなさいよ!」

「何がだよ。」

「何がじゃないよ。バカ!」

二人が言い合っている様子に思わずため息がもれる。そのため息を聞いて二人が黙る。

しばらく三人で黙ってバスに揺られていると、カズが口を開いた。

「なあ、ジュンがさ、前にあいつに気をつけろって言ってただろ?」

「え?そうなの?」ナツが驚いた声をあげる。私もジュンくんがカズに話していたことを知らなかったので驚く。

「それって、そういうことなんじゃないの?」

「でも、ジュンくんが言ってたのは、つきまとうとかそういう話だったっけ?」

私が聞くと、カズが説明してくれた。

南西中のある女の子が、一時期から前田くんとすごく仲がよくなった。その女の子はジュンくんの友達の幼馴染の女の子で、あまり他の男子と話すタイプではなかった。それが、前田くんと仲良くなってから前田くんとばかり話すようになり、しまいには前田くんのいう事しか聞かなくなった。友達の言うことも先生の言うことも親の言うことすら聞かない。前田くんと同じ高校に行きたいと言う彼女を、親が心配して必死になって止め、先生にも相談してついには入院する騒ぎにまでなったそうだ。

私はそこまで話を詳しく聞いてなかったので驚いた。ジュンくんは私を怖がらせないようにと、かいつまんで話したのかもしれない。

「確かに前田がつきまとうとかそういう話じゃなくて、むしろ女の子が前田に執着してたみたいだから、なんかハルとは違う気がするけど…」そう言ってカズが頭をかく。「だよねえ…」とナツも腕をくんで首を傾げる。けれど私は図書館の前で前田くんの瞳から目を離せなくなった時の感覚を思い出していた。茶色い瞳の奥に何かが見える気がして目が離せなくなり、気が遠くなりそうだった。あの時、ナツの声が聴こえなかったら私はそのまま前田くんについて行き、その「内緒の本」の話を聞いていた気がする。

「内緒の本」という響きと、前田くんの瞳に恐怖を対照的に感じながら、吸い寄せられるような感覚があった。

家の前で「じゃあ」とカズに声をかけると、カズが「あのさ…」と引き留める。

「何?」雨は小降りになっているけれど、まだぽつぽつと傘に落ちてきている。

傘ごしにカズも顔を見上げる。カズはいつの間にこんなに大きくなったんだろう。

カズの持つビニール傘からぽとぽとと名残惜しそうに滴が落ちている。右の肩にビニール傘を傾けているので、カズの左の肩が濡れていた。

「お前のことは俺が守るから。」

カズの目がまっすぐに私を捉えて言う。まっすぐな言葉と目に足がすくんでしまう。

「ちゃんと、言えよ。」言ってから恥ずかしくなったみたいで俯きながら言葉を続ける。

「ありがとう。」思わず笑いが漏れる。

「こないだ、グランド来た時だろ。本当はあの時も何かあったんだろ。」

私はこくりと頷く。

「ちゃんと、言えよ。我慢すんなよ。俺でもナツでもマーくんでもいいよ。ちゃんと言えよ。」

「うん。ありがとう。」

カズの左の方から少し光が差してきて、その横顔に雨の滴がキラキラと光って見えた。





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