第9話

高校に入学して一か月ほどたった。ゴールデンウィークは結局お母さんからもお兄ちゃんからも許しが出ず私たちは誰も東京にいる二人の様子を見に行けなかった。そろそろ梅雨入りか、衣替えか…そんなある夜、いつものように夕飯を持ってカズの家に行った。部活が始まると、食べる時間が遅くなり、最近は別で食べている。

カズの家には灯りがともり、カズが帰っていることが伺える。

「カズー。今日はハンバーグだようー」玄関から声をかけると、リビングでがさごそと音がする。

部屋を覗くと、カズが頭からタオルを被っている。

「おかえり。部活どうだったー?」

キッチンに行き、タッパーを置いて棚からお皿を出す。

「ん?ああ。うん、楽しかった。」

カズは背中をこちらに向けたままで返事をする。頭にはタオルを被っている。とっさに被ったみたいに、ずれている。なんだかぎこちない。

「…どうしたの?」こちらを全く見ようとしないカズを不審に思う。

「別に。」

「何かあった?」私はキッチンを出て、カズに近づく。ソファの前のカズは背中を向けたままだ。足元にジャージが無造作に置かれている。まだユニフォームが届いていないのでジャージで部活に参加している。そのジャージが泥で汚れてる。

「あーあ。またえらく汚れたねえ…。」しゃがんで、そのジャージを手に取ろうとすると、カズがさっと手を伸ばしてジャージをひったくった。

突然、乱暴にひったくられて驚いて、カズを見上げる。

「あ、あとは自分でやるからお前、もう帰っていいよ。」

タオルの隙間からカズの顔がちらりと見える。

「…何、その顔。」カズの口元が切れている。切れて赤黒くなっている。頬には大きなかすり傷もある。

「何もねえよ。練習で転んだんだよ。」カズはタオルを被りなおす。私はそのタオルをさっと取り上げる。

「練習でそんな傷作ったことないじゃん!何その顔!」ほとんど泣きさけぶように言った。私はカズのTシャツに手を伸ばし、裾をまくる。お腹に複数のあざが見える。生々しいかすり傷も。

「…誰?」

「練習。」

こうなったら、意地でも口を割らないのがカズだ。私は黙って、救急箱を取りに行く。カズの家の救急箱はリビングの戸棚の中に入っている。

「こっち向いて。」ずっと背中を向けているカズのTシャツの裾をひっぱる。

黙ってカズがこちらを向く。ソファに座るように促す。消毒液をガーゼに浸し、傷口をふく。

「…泣くなよ。」

私は悔しくて悔しくて、涙が出た。これは、練習でできた傷なんかじゃない。誰かに殴られた傷に違いない。じゃなかったら、こんな風に必死に隠したりしない。必要以上に汚れたジャージも、突き飛ばされて泥がついたんだろうか。

「…悔しい…。」

奥歯を必死で噛みしめながら、私はカズの頬の傷を手当し続ける。

「…泣くなって。」

そう言って、カズが私の頬にそっと手を伸ばした。私とカズの視線がぶつかる。

1…2…3…

時が止まったかのように思えた次の瞬間、玄関の開く音がする。

「ただいまー」カズのお父さんだ。今日は早い。

「お、ハルちゃん、来てたのか。いつもありがとうなあ。」のんきにリビングに入ってくるおじさんに私は急いで涙を拭って、笑顔を向ける。

「おかえりなさいー。」

なんだか不穏な空気を感じて、おじさんは一瞬困った顔をする。そして、その奥で顔に傷を作った我が子の顔を認めて、さらに怪訝な表情になる。

「カズ…どうした、その顔。」

「別に、転んだだけ。」

その後も、カズはおじさんがどんなに聞いても「別に」の一点張りだった。おじさんは困った顔をしいていたけれど、それ以上は追及しなかった。

帰り際、泣きそうな私の顔を見て「男の子だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」と言ってくれた。

私は心配というより、悔しい気持ちでいっぱいなのだと言いたかった。

カズがそんな目にあうことももちろん、でも、それ以上に何も言ってくれないカズに。


翌朝、カズは朝練に行くからと先に家を出た。

私は気になって、いつもより少し早く家を出て、カズのいるであろうグランドを覗きに行く。昨日、よほどお母さんに相談しようかと思ったけれど、ひとまず我慢した。

そっと、誰にも見つからないように、フェンスの影から野球部の様子を覗く。そこには、別に変ったところのない、野球部の風景が広がっている。カズも他の部員たちに交じって声を出しながら、グランドを走っている。

取り越し苦労だったかな…

ほっと胸をなでおろすと、ぽん、と後ろから肩を叩かれた。

「ひゃあ!」

身を潜めていたつもりの私は驚いて、叫んだ。

「び、びっくりしたー」振り向くと、そこにはマーくんとナツが立っている。

「何してるの?」朝練をしていたら、体育館横を歩く私を見つけてついてきたらしい。マーくんはともかく、ナツは自由すぎじゃないか。

二人に事情を話すと、二人はすでにそのことを知っていた。

「結局バレちゃったんだ。」ナツが何のこともなさそうに言う。

昨日、帰る時に二人はすでにカズを見て、何があったかを聞こうとして、ハルには絶対言うなよと釘をさされていたらしい。

「誰がやったか分かってるの?」聞くと、マーくんが「多分、あいつじゃないかなあ」と前に下駄箱で話しかけてきた3人のうちの一人の名前をあげる。どうやら野球部だったらしい。私はその顔をなんとか思い出そうとしながら歯噛みする。

「でも、まあ、カズが何とかするよ。」マーくんが明るい声で言う。

「ハルが心配なのはわかるけどさ。ショウちゃんにも言うなって言われたし。生徒会長であるショウちゃんの力をかさに着るのが嫌みたいなんだよね。最後まで名前も言わなかったし。他にも野球部のやつがいるわけだし。」

「でも、なんか悔しくて…カズ、あんなに野球好きなのに、その野球部で嫌な想いしてると思うと…。」

「ハル…あんたさ…」ナツが腕組をして難しい顔をする。

「なんか母親みたいじゃない?いいの、それ。」

「え、どういう意味?」

「私たち幼馴染だけどさ、母親じゃないのよ。兄妹でもないの。心配できることも相手のことに立ち入っていくのも本来限度があるはずなのよ。それがさ、あんたは家が斜め前で、毎晩同じもの食べて、その垣根が分からなくなってるんじゃない?お互い、本来プライバシーってものがあって、そこを侵害しちゃいけないのよ。てか、こんな風に影から見てるとか!母親か!」そう言ってナツが私の肩を揺らす。

ナツが言ってることは理解できるような、できないような…

「ちょっと来て。マーくんは練習戻って。」ナツは私の肩に手をまわしてグランドから離れていく。ナツは練習に戻らなくていいのだろうか。

マーくんは苦笑しながらもおとなしく戻っていく。

「ほんと、大丈夫だから。気にすんなって。ね。」と言いながら。


「あんたさ。どうなってんの?カズと」連れて行かれた校舎裏で私は壁とナツに挟まれる形になる。

「どうって…どうもなってないけど?」

「だーっもう!」ナツが短いその髪をくしゃくしゃとかき回す。

「私たち高校生だよ!高校に入ってもう一か月。もう周りでは何組かカップルができてるでしょ!みんな、くっつきたがってるの!青春を謳歌したがってるの!周りの女子高生たちは虎視眈々とその機会をうかがってるの!カズが入学してすでに何人に告白されたと思ってるの!あんた、カズのことが好きなんじゃないの!」

ナツが私の顔の横に手をどんとつける。

「いや…好きっていうか…」

「てか、あんた、結局ゲンゴロウと美術部に入ったんでしょ。」

「だから、ゲンジロウくんだってば。」

「どうだっていい!」ナツがもう一度壁を叩く。痛くないのだろうか。

「いや、美術部には入ってないよ?」

「あ、そうなの?」気が抜けた声を出すナツ。

私はあれから前田くんと美術部を見学しに行き、先輩たちがとても穏やかそうな人たち、且つ「あの大島先輩の妹」という私を歓待してくれたものの、やはり絵にそこまで興味はないからと断ったのだった。

「じゃあ、なんで最近いっつもゲンゴロウと一緒にいるのよ」仁王立ちをするナツ。完全におカンムリである。

もうナツの頭では「ゲンゴロウ」と命名されてしまったようだ。

前田くんとは確かに最近よく一緒にいる。本の貸し借りをすることもあるし、図書館で一緒になることがあるので、みんなが部活の時なんかは、バス停まで一緒に歩いたりもする。

「最近、巷でどういう噂になってるか知ってる?」

「し、知りません…。」

「『前田と大島は付き合ってる』これよ。」

「ああ…」大体予想はしていたので驚かない。森川さんたちがこそこそ話しているのを聞いてしまったこともある。

「ちょっと!それでいいの!カズの耳にも入ってるよ!絶対!」ナツが壁をさらにどんどん叩く。さすがに痛いのでは…

「いいも何も私たち付き合ってないし…。」目をそらして答える私。ナツがその顔を見て、壁に当てていた手を力なく下ろす。

「ねえ、ハル。どうしたの?カズのことが好きなんじゃないの?」先ほどとは変わって優しい声で言う。

「ねえ。ナツちゃんはマーくんのこと、いつから好きで、その気持ちに疑いを持ったことはないの?」

「どういう意味?」

「だって…私たちずっと一緒にいるでしょう?私とカズなんて生まれてからずーっとだよ。気が付いたら、なんとなく好きだったような気がして…それって家族愛とどう違うのか、本当に恋なのか、ていうか恋人としてカズのこと本当にみられるのか、そもそもカズが私のことどう思ってるか分からないし、もしよ、もし、万が一付き合うことになって、本当にうまくいくのかな?ていうか、付き合って、うまくいかなくなって別れちゃったら…」

私は俯く。

「ねえ、何かあった?」

ナツが私の顔をのぞき込む。もうそろそろ練習が終わる頃で、朝練終わりの生徒たちがガヤガヤとやってきた。

「とりあえず、今日の夜、あんたんち行くからね。」

そう言って、ナツは制服に着替えてくる、とその場を去っていった。あとに残された私は、ナツの勇ましい後ろ姿を見送っていた。


「で?」

その夜、ナツが着替え一式を持って私の家にやってきた。ごはんもお風呂も済ませたナツが私のベッドに寝転んで聞く。

「で、って…」私は床に敷いた布団の上だ。普通逆だと思う。

「なんかさあ!正直言ってね、去年の夏かな?ちょっと微妙な空気になってた時あったよね!?」

「ああ…」気が付かれてましたか。

「気がついてないとでも思ったか!この私が!」

「ナツさん、声が大きいです…」

「その時にくっつくのかなあ、くっついたのかなあ…と思ったら特に報告もなし、別に変った様子もなし、まあ受験生だし、そっとしとくかなと思ったのよ。私は。」心持だけ声のトーンを落とすナツ。

「はい…」私はなんとなく正座をしてしまう。

「それが、何?高校入って一か月!我々、青春の真っただ中にいるというのに!いや、違うのか!ハルはゲンゴロウと青春してるのか?」

「ナツちゃん…お願い…落ち着いて…」肩で息をするナツをなだめる私。

「違うんだよ。いや、前田くんと付き合ってるとかじゃないよ。もちろん。前田くんとは、まあ本とか話が合うから、よく話すようにはなったんだけどね。どこから話したらいいかなあ。」

「どこだっていいよ。話してみな。」

美術部に一緒に入ることはやめたものの、最初の三島由紀夫からなんとなく本の貸し借りが続いて話すようになった。前田くんは話し方もまとう空気も、なんというか男の子っぽいところがない。空気そのものが静かだ。その空気感はどことなくお兄ちゃんに似ている。私としては、前田くんに失礼なのは承知の上で言わせてもらうと、新しい「女の子の」友達ができたような感覚だった。

前田くんと話すのは主に本のことについてだったが、時々やはりカズの話になる。何といっても二人の最大の共通の話題だから。今日クラスでカズがどんな風だったかを前田くんが話題にして、私は幼い頃からのカズの話をする。

その話の中で、ある日「大島さんは、中元くんのことを好きだと思ってるんだね」とにこやかに言われた。「好きだと思ってる」というその言い方にひどく胸が痛んだ。

「その言い方、かなり悪意がない?」

「うん…なんか、でもあまりにも突然で、あまりにも軽く言われて、なんだかその時は反論できなくて…。」

で、何事もなかったように、そのことには触れられずに日が過ぎていくと、なんだかその言葉だけが、心に刺さって抜けなくなってしまった。そしたらいつの間にか、「私って本当にカズのことを好きなんだろうか。」と考えるようになってしまった。これまで、ナツやマイちゃんの前だけでカズを好きなことを話題にし、それを当然のように思ってきたけれど、本当にそうなのか。「好き」ってなんだろう…。

「青春か…。」枕を抱えて吐き捨てるように言うナツ。

「何よ。青春しろって言ったのそっちでしょ。」

「私が言ってるのはもっと猪突猛進、恋は盲目!みたいな青春だよ。うだうだ悩んじゃってさ。」

「だってさ。ショウくんとマイちゃんが付き合ったのを見て、なんか告白したらうまくいくもの、みたいに当然思ったんだけど、そうじゃない場合もあるわけでしょ?マーくんみたいなケースもあるし。」ナツの兄であるショウくんとジュンくんの姉であるマイちゃんは、去年の夏頃から付き合い始めた。

「あんた、そんなこと思ってたのね…。」

「え、違うの?」

「お気楽なんだか、悩んでるのか、分からない…。」大きくため息をつく。

「私はさ、マーくんはアオイちゃんのことがずっと好きだったわけじゃない?だからうまくいくとは当然思えなかったよね。」

「そっか…確かに。それでも、やっぱり好きだから、想い続けてきたわけでしょ。ナツちゃんはマーくんのこと、本当に好きだよね。」

「まあね。多分ね。」

「なんかさ…カズって何考えてるかよくわかんないとこがあるんだよね。」

「ああ。うーん…」

「ああやってさ、怪我した時とかさ、もっと心開いて話してくれたらいいのに。話してくれないし。」

「さっきは?どうだったの?ごはん届けに行ったんでしょ?」

今日はご飯を届けに入ったら怪我をした様子もなく、どちらかというと機嫌がいい方で、部活終わりのマーくんもいて既に一緒にゲームをしたいた。

「えっマーくんいたの?行っちゃう?」

「えーいいよう。もう眠いし。どうせ、ゲームして相手してくれないよ。」

私は横になって、布団をかぶる。

「…それに…あの野球部の先輩がいたんだよね。」

「えっ!カズに暴力ふるったんじゃないかって人?」横になりかけていたナツが体を起こしてこちらを見る。

「うん。なんか何事もなかったみたいに3人で楽しそうにゲームしてて。ごはん持って行った私に『本当に大島さんの家すぐ近くなんだね~』とか話しかけてくるの。なんか腹立って腹立って。マーくん、『ごはん、俺らの分もある?』とか呑気に聞いてくるし、カズはちっともこっち見ないし。無視して、帰ってきたの。」

布団を頭まで被って、腹立ちを収めようとする。あんなに心配したのに…悔しくて泣いてしまったのをカズだって知ってるのに。でも、もう暴力をふるわれたり、そんなことはないんだろうと思うと、ほっとした。

「心配して泣くのは母親みたい…?」

「今朝は私も言い過ぎたよ。ごめんって。」ナツがベッドから降りて、私の布団に入ってくる。

「ていうか、カズは絶対あんたのことは母親みたいには思ってないし。カズの方がお兄さん的でしょ。」

「…じゃあ、妹みたい?」

「もう、気にしすぎ。」

ナツの、家の匂いがするほどに近く顔を寄せ合う。

「でも…よかった…」

私はナツの匂いに安心しながら、眠りについた。

高校に入って、またカズとの距離が少し空いたような気がする。多分、アオイちゃんとお兄ちゃんがいなくなって、ごはんを届けるだけになり、私たちの家族的な雰囲気がこれまでとは違うものになったからだと思う。少し距離をあけて、考えてみると、私たちはなるほど不思議な関係性で、確固たる自信もない。カズはなんにも言わないし、私の気持ちは揺れ動くばかり。

ナツが言うように、もっとしっかり距離をつめていくべきなのかもしれない。けれど、野球部にはもう、森川さんがあからさまな下心でマネージャーについていて、それを私もする勇気はなく、なんとなく宙ぶらりんだ。


その夜、私は小さい頃、かくれんぼをする時、いつも二人で隠れていた押し入れの中の夢を見た。いつも二人一緒に隠れるから、すぐにお兄ちゃんに見つかってしまう。けれど、どこに隠れていいか分からない私はいつもカズのあとをついて、同じところに隠れていた。

押入れの、暗闇の中で、二人でクスクス笑い合いながらお兄ちゃんを待っていた。ほんの短い間だった筈なのに、この世の全てみたいな時間だった。世界の不思議も、何もかもがあの暗闇の中にあった。カズの顔だけが見えて、私は世界の全てを理解したように思っていた。

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