セイ

高殿アカリ

本編

私の高校には、古くから伝わるある一つの噂がある。


「夜中の十二時になると、黒板消しの妖精が現れて、女子生徒を攫ってしまう」


こんな噂だ。

もちろん、どの黒板消しが妖精なのかは謎。


他にも夜中に突然現れるだとか、いやいや、開かずの間の黒板消しだとか。

本当のところ、どうなんだろう。


怪談話にしては信憑性がないし、かといって、黒板消しの妖精だなんてユニークな噂が埋没することなく噂としてずっとあるのは何だか不思議だ。


そんな風に半信半疑で生徒たちはその噂を捉えていた。

その中の一人だった私は、あと一週間ほどで卒業を迎える現役高校生だ。


高校三年生の最後の一週間といえば、受験期直前、直後の印象だが、生憎私には年明け前に推薦で受けた一般大学からの合格通知が届いていた。


周りが受験で慌ただしい日々の中、私を含む少人数の進路決定者だけがいつもと変わらない日々を送っていた。


これは、そんな卒業までのたった一週間のお話。




その日は夜遅くまで居残りをさせられていた。

というのも、図書委員の一年生二年生と一緒に図書室の蔵書整理をしていたのだ。


「じゃあ最後、お願いね」と渡された図書室の鍵を片手で持て余しながら、戸締りをしていく。


こんな寒い日に窓が開いているはずもなく、私は窓の鍵が掛かっているかどうかだけ確認し、カーテンを閉めていく。


窓の外はもう暗い。

いくら日が長くなったとはいえ、随分と長い時間仕事をしていたらしい。


柱に掛かっている時計を見ると、夜の十時少し前だった。


「えっ」


慌てて私は戸締りを終えると、鍵を職員室に返しにいった後、鞄を取りに教室に戻る。

職員室で教室の鍵を貰うのを忘れずに。


三年生は職員室と同じ二階に教室があるので楽だ。

それでも小走りで教室に駆け込む。


十時ジャスト。


私は黒板の前でフリーズした。

否、せざるを得なかった。


なぜなら、黒板消しから人が浮き出てくるのを目にしたのだから。


そう、黒板消しから。


出てきたのは、驚くほどに綺麗な顔をした青年だった。

青の瞳にさらさらな金髪は、そう、まるで……。


「王子様みたい……」

「え? 僕が?」


きょとんとして返された言葉に私は自分の顔が熱くなるのを感じた。


な、なんてことを口走ったんだ!

今すぐ逃げたい私のことなんかお構いなしに、彼は話しかけてくる。


「て、いうか。君、誰?」

「あ、え、えっと、高橋恵美子です」


何が何だか分からずに返事を返すと、彼は何だか嬉しそうに笑って、「そっかー、じゃあ、えっちゃんだねぇ」なんて独り言ちる。


私は不覚にも見惚れてしまった。

まるでこの世のものじゃないみたいに綺麗な顔をして笑うから。


……同じ人間じゃないみたい……。


…………ん? ちょっと待って。


私は恐る恐る問いかける。


「……あなた、名前は?」


そもそも、だ。

私は黒板消しから彼が出てくるのを見た、間違いなく。

その時点で人間であるはずがないわけで。


もし人間だったとしても、だ。

この時間に教室にいるのは相当の危険人物でしかなくて。


……どっちにしたって、私、相当やばい状況なわけで。


「黒板消しの精霊とか、黒板消しの妖精って呼ばれてるけど、えっちゃんには、せいちゃんって呼ばれたいな!」


……あぁ、やっぱり噂の主でしたか。


私は何だか拍子抜けして、ニコニコ笑顔で私から「せいちゃん」と呼ばれたいらしい黒板消しの彼を見る。

……せいちゃんって……。


「……セイ」

「えぇ、せいちゃんって呼んでよ!!」


頬を膨らませて怒るセイ。


絶対に呼ばない。

だって……せいちゃんって……どんな羞恥プレイよ!


はぁ、と軽い溜息をついて、私は鞄を肩にかける。


「じゃあね、セイ」


もう二度と会うことはないだろうな。

卒業前に不思議な体験ができたなぁ。

なんて思いながら、教室の扉に手をかける。


「待ってぇ」


そんな声と共に、お腹と背中に軽い衝撃が走る。

えっと思って後ろを振り返ると、セイが私を抱きしめていた。


鼻水と涙を流しながら。


一瞬でもドキッとした私って……。

自己嫌悪で吐きそうだわ。


綺麗な顔をして私を見つめてくるセイの潤んだ瞳を見つめ返しながらそんなことを考えていた。


「何」


スンスンと鼻を鳴らすセイを引き剥がしながら問う。


「だって、だってぇ。初めて僕を見ても怖がらない人だし……それに、なんか、いい匂いがした!」


そんなことを笑顔で言って、私に飛び掛かろうとするセイ。

……い、いい匂いって。


どうしてこんなにも惑わされなくちゃいけないのか。

一人顔を赤くする私に、自分が一番驚いているのだ。


「あ、雪だ!」


突然、セイが嬉しそうな声をあげた。

いつの間にかセイは窓の側にいて、さも楽しげに私を振り返って来る。


……前言撤回。

セイが王子様だなんて。

聞き分けの悪いただの子どもじゃない。


セイが私を手招きする。

私はセイに近づいて行って、一緒に窓の外を見る。


そこには月明かりの下、キラキラと輝く雪が優しく舞っていた。


ね? 雪でしょ? 綺麗でしょ?

なんて顔をして私を見てくるので、私は呆れて、


「そうね、綺麗ね。よくやった」


そう言いながら、セイの髪をわしゃわしゃと撫でてやる。


……この子、犬なのかしら。

目を細めて私の手にすり寄ってくるセイに、そんなことを思った。


セイは、突然に私の手を掴むと、廊下に飛び出していく。


「遊ぼう!」


弾けんばかりの笑顔を向けて。

二人で、中庭に出て、走り回って、笑いあって。


どうしてこんなにもセイには素直でいられるのか。

全く分からなかったけれど、不思議と気にはならなかった。


人間じゃないからかも。

そんな風に思って、少しだけ笑えた。


夜更けに舞う季節外れの白い雪は、地面に落ちたらすぐに溶けて消えてしまう。


仰向けに二人で寝ころんで、舞い落ちてくる儚い雪達を眺めていた。


「何だかセイみたい」


そう言うと、セイは笑って答える。


「僕は、えっちゃんみたいだなって思ったよ」


私達は顔を突き合わせて、笑いあった。

いつまでもこんな時間が続けばいい。


「……じゃあ、そろそろ帰るね」


私は立ち上がって、スカートの裾を払う。


「じゃあ、僕は寝るよ」


そう言ってセイも立ち上がる。


「え? ……あれ? そういえば、噂ではセイって十二時に現れるんじゃないの?」


「いや、十二時になったら眠るんだ。僕だって眠いんだからね」


ただの疑問をぶつけただけなのに、どうして怒っているの。

私はやっぱり笑って、セイの頭を撫でてやる。


ふふふ、何だか不思議な気持ち。

その感情の正体が分からぬまま、その日は帰路に着いた。




次の日、私はいつもより少しだけ早く登校した。

何だか昨日の出来事が嘘みたいで、確かめたくなったのだ。


教室の扉を開ける。

まだ誰も来ていないみたい。


ほっと息をついて、黒板の隅の方に並べられた黒板消し達を見る。


……セイはどれだろう。

一つ一つ手に取って確かめてみるも、どれもセイのような、そうではないような。


朝の教室。

一人で黒板消しを見つめ、しきりに首を傾げる少女。


……はっと今の状況に気が付いて、慌てて自分の席に座る。

それでもやっぱり気になって、じーーっと黒板を眺めていた。


暫くすると、徐々にクラスメイト達が登校してきたので、見るに見られない状況になっちゃったけど。


その日、先生が黒板消しを取る度に、私は息をつめて黒板消し達を見つめる。

……あぁ、痛いよ、そんなに強く消しちゃったら。


痛い痛いって言って泣き出すんじゃないか、と思ったら、何だかおかしくて。


気が付けば頬を緩めている私がいた。


いつの間にかもう放課後になっていて、部活も勉強もない私は、ちらりと黒板消しに目をやると、そっと教室から立ち去った。


何故だか、セイに会いたいと思っていることを知られたくなかった。

セイにも、自分にも。


うん、昨日は半分夢の中の出来事だったんじゃないかな。

ほら、寒かったし。


ああいう出来事は一度でいいんだよ。

毎日のように遅くまで残るなんて物理的に無理な話だしね。


そこまで言い訳を繰り広げた時、突然に強い力で引っ張られると、気が付けば誰かの腕の中にいた。


「……え」


その瞬間、感じたのはスンスンと鼻を鳴らす音と、首筋に感じるくすぐったい感覚。


……これは。


「っつ、セイ!! なんでこの時間にいるの!?」


吃驚して私を抱きしめていた彼を離す。


「えーー、だって、えっちゃんが帰っちゃいそうだったし」


ぶぅぶぅと唇を尖らせて不満げな顔をするセイ。


「いやいや、ばれたらどうするの!」


「わぁ、えっちゃんが僕の心配してくれてる!」


人が本気で言っていることなんてお構いなしに、彼は嬉しそうに顔を綻ばせて私に抱き付いてこようとする。


尻尾が今にも生えてきそうよ、セイ。


顔が赤い? 心臓が五月蠅い?

一体何のことやら……。


自分自身に意味のない言い訳なんかしながら、私はセイの姿に頭が痛くなった。

こっそりと息づいている確かな自分の鼓動にも。


セイは、ニコニコと笑いながら、とんでもない話を吹っ掛ける。


「ねぇ、えっちゃん! 僕、クレープ食べたい!」


……あぁ、私は絶対にセイに勝てないのだな。


夕日に染まる街の中。

ありふれた少女と異国風の青年がクレープ屋を目指して歩いている。


「ねぇ、セイ」

「ん?」

「セイって、普通に誰にでも見えているの?」

「うん、そーだよ」

「……へぇ」


そんな会話を繰り広げながら歩く。


セイは時折、私の顔を覗き込む。

その度に私はどぎまぎして視線を逸らす。


夕焼け色に染まった彼の色素の薄い髪の毛のせいよ!


いい加減に素直になれよ、と諦めて自分の感情に向かい合った、その時。


温かいものに包まれた左手。

はっとして顔をあげると、セイが……。


「寒いーー」


肩をすぼめていた。


がっかりだわ、タイミングがタイミングなだけに……。


はぁ、とやりきれない思いを吐き出す。


すると、セイが不思議そうな顔をして覗き込んでくるから、私は何だか悔しくなって、セイの右手を強く握った。


強く。


セイはそれでも嬉しそうに無邪気な表情で握り返してくるから。

やっぱり私はセイに勝てっこない。


その日、夕闇の中、二人で食べたクレープはどことなく切ない味がした。


時は、あっという間に流れてしまう。

それはもう、残酷なほどに。


毎日のようにセイは放課後になると私の前に現れた。

そして私にこの街のあらゆるところを案内させるのだ。


左手はいつも温かかった。


ある時は最近流行りの喫茶店に、またある時はゲームセンターにカラオケなど、セイはどんな場所にでも行きたがった。

私はそんな時間を愛しく感じていた。


そして、今日、私は遂に高校を卒業した。


そんな放課後、ぼんやりと教室に佇む私の目の前で、セイは黒板消しからその姿を現す。


私達は暫く何も言葉を交わさなかった。

まるで初めてあったあの頃のように。


「今日は、どこに行く?」


私は心臓に刺さっている棘の痛みを殺して問いかける。


もう、もう、二度と。


セイは笑う。


それは、いつもの甘えた笑みなんかじゃなくて。

もっともっと優しくて、温かくて。


私は泣きそうになるのを堪えるしかなかった。


セイは言った。


「今日は、えっちゃんに見せたいものがあるんだ」


その瞳を見て、私は彼が全てを分かっているんだと知った。


セイが差し出すその手を、私は厳かに握った。

温かなその右手も、今日限りなんだ。


セイと私の間に会話はない。

それが妙に心地よくて、やっぱりでもちょっとだけ悲しくて。


セイが足を進めるその場所に、心当たりがあるから。

やっぱり最後までセイにはやられっぱなしだな、なんて苦笑して。


セイと私は同時に足を止める。


一つの横断歩道。


なんの変哲もないその場所では、誰もがいつもと変わらない時を過ごしている。


小学生が、サラリーマンが、お婆さんが、そして私とそう歳の変わらない女子高生達が、青に変わった信号に反応して、歩き出す。


私とセイだけを取り残して。


「……セイは、全て知っていたんだね」

「うん、ずっと、えっちゃんを見ていたからね」


互いの目を見ることなく、私達はぽつりぽつりと言葉を交わす。


「私が可哀想だったから出てきてくれたの?」

「っっ! それは違う!」


セイの握る力が強くなる。

あなたは、どこまでも優しい人なんだね。


「セイ、私ね。何の取り柄もない女の子だったの」

「……うん」


「そこら中にいる女の子と何も変わらなかった。……ありふれた世界のありふれた一人だったの」

「……うん」


セイは、ゆっくりと頷きを返してくれる。

そのことに安心して、私は気負うことなく、事の真実と向き合えた。


「だからね、まさかトラックに跳ね飛ばされて死ぬだなんて、思ってもみなかったの!」


とびっきりの笑顔を見せて、セイの方を見る。

セイはひどく傷ついたような瞳をしていた。


あぁ、やっと目を合わせられた。

そう思ったときにはもう既に、私はセイの腕の中にいた。


「相変わらず、セイは泣き虫ね」


私はセイが愛しくて、背中をあやすように叩いてやる。


彼の優しい涙が私の肩を濡らす。

馬鹿ね、セイがそんなに泣くと、私が泣けないじゃない。


溢れかけた言葉は胸に押しとどめた。

それでも、セイの肩越しに見える景色に私は一粒の涙を流した。


「……セイ、見て」


きつく、きつく抱きしめるセイに囁きかける。

セイはゆっくりと私から離れ、赤くなった瞳を私に向けた後、私の涙を優しく拭った。


そして、ようやっと後ろを振り返る。


ありふれた世界のありふれた日常のありふれた道路の一角。

お母さん、お父さん、先生、友達、先輩……。


皆が、私に会いに来ていた。


綺麗な色とりどりの花を抱えて。

私の好きないちご味のキャンディーと温かいココア。

……そして、私の卒業証書。


未だ繋がれたままのセイの右手をぎゅっと握る。

セイは驚いた顔をして私を見る。


私はさっきの続きを話す。


「……でもね、セイ。私、嬉しかった。短い人生だったし、何にも残せなかったのかもしれない。もちろん、心残りだってたくさんあるよ」

「うん」


「でもね、セイに、会えた。セイが、私を見付けてくれた」


私は今、一番可愛い顔を出来ているかな? 好きな人の前では少しでも可愛くいたい。


「……ぼ、僕も。えっちゃんに会えてよかった」


泣きながらそんなことを言うセイ。


ほうら、やっぱりセイはセイだ。

こんなにも私の心を持ち去っていく。


「……セイ、私に出会ってくれてありがとう。一週間だけだったけれど、私はセイに助けられた。だから今こうして自分の行くべき場所が分かってる。……泣かないで、セイ。私は本当に今、幸せだから」


私はセイに近づき、彼の涙をそっと拭ってやる。

彼が私にそうしてくれたように。


そうして、彼の後ろに見える温かな光景を瞳に焼き付けながら、彼に言う。


「セイ、こんなにも幸せなことってある? 大切な人たちに見送られて、あるべき所に戻っていけるなんて」


セイはもう、泣いてはいない。

ただ真っ直ぐに私を射抜く。


彼がゆっくりと近づいてくる。


私はそのまま瞳を閉じて、最後の最後に彼に告げる。


「好きよ、セイ」


彼の優しくて甘い唇を感じた。

少しだけ涙の味がしていた。









「えっちゃん……」


僕の大切な女の子。

あの子はいなくなってしまった。

僕の想いだけを残して。


「どうせなら、僕の気持ちも聞いてくれたって良かったのに」


えっちゃんは覚えていなかったけれど、えっちゃんは僕のお姫様なんだ。

もう、何年も前から。


「あの頃はせいちゃんって呼んでくれていたのに……」


ぼやいた言葉が空に溶ける。

綺麗な、空だった。


それでも、もう僕は泣かないよ。

えっちゃんがあんなにも綺麗に笑ったんだ。


僕だけがいつまでも引きずっていられないよ。



あれはまだ僕が小学校の黒板消しだったころのこと。


「ねぇ、何て言うの? 名前」


彼女は今と少しも変わらない無邪気で愛らしい表情で。


「……黒板消しの精霊、とか、妖精とかって呼ばれてるよ」


僕は今以上に泣き虫の弱虫で、また怖がられちゃうのかな、なんて思って怖くて。


彼女はそんな僕を包み込むように。


「じゃぁ、私が名前を付けてあげるよ!」


う~ん、と真剣に悩む彼女が可愛かった。


遠い日の彼女が僕の名を呼ぶ。


「せいちゃん!」


ずっとずっと、大切だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

セイ 高殿アカリ @akari_takadono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ