2 人生の一日
ぼくはどちらかというとぷっくりした体形だった。デブとか、肉づきがいいというのとも違う。体が小さかったから(他の連中が急に大きくなったのだ)、そのぶん少し太ってみえる、と自分では思っていた。だから進学前の学年の身体検査で、「これはむくみじゃないか」と言われたときはショックだった。医者はぼくの手足を強く押したり握ったりしたあと、担任の先生を呼んで「大きな病院で検査する必要がある」と告げた。
ぼくの受験した私立中学の合格発表が数日後にひかえていた。熱もないし、痛いところも調子の悪いところもべつにないのだから、検査を受けるのは合格発表を見た帰りでもいいだろう、と両親はかってに決めた。
合格者の番号がびっしり書かれた掲示版の中にぼくの番号を見つけて、母親はとても喜んだが、ぼくは複雑な心境だった。もちろん合格はうれしい。なにはともあれ、ぼくという人間が認められたわけだから。だけど、クラスのほとんどが同じ公立中学に進学するのに、ぼくだけ別の中学だ。友達と別ればなれになってしまう。しかもその中にはぼくの好きな女の子もいるのだ。そのことを思うと、さみしくつらいものがあった。たぶんそのときはじめて、ぼくは人生というものに触れたのではないだろうか。
複雑な気持ちのままぼくは病院に連れていかれた。ぼくも母親も病気のことなどほとんど頭になかった。母親はあちこちに電話をかけてぼくの合格を報告し、席にもどると今度は夕食の献立を心配した。「ごちそう作るよ。なにが食べたい?」と、得意料理の名前を言いはじめて、すぐに種ぎれになり、やっぱり外に食べに行こうか、と考えこんだ。ぼくは人生の岐路のようなものを前にして当惑していた。
医者から入院を宣告されたとき、一瞬、頭の中が真っ白になった。急性腎炎とかいうもので、食餌療法と安静が必要だという。医者はいろいろ説明してくれたが、よくわからない。母親はそれがこわい病気なのかどうかと問いただし、それほどこわい病気ではないと知ると、ほっとして、こんどはいつごろ退院できるのかと聞いた。医者は、くわしい検査と治療の経過をみないとわからない、と答えたうえで、一般的には二~三カ月かかるのが普通だと言った。そのとき、ぼくの頭の中にあったもやもやがスーっと消えた。∧なんだ、これから入院するんだから、先のことをあれこれ考えてもしょうがないや∨
「時期がよかった。中学も決まったことだし、もうすぐ春休みだからなにも心配はない。ゆっくり休めばいい」と、母親は言った。そうか、人よりちょっと早い春休みなんだ。この機会に、前から描きたかったマンガを一気に仕上げちゃおう。入院準備のためにいったん家へ帰り、マンガ道具の入れてある箱を整理しているうちに、気分がうきうきしてきた。
看護婦に連れられて長い廊下を歩いた。外来病棟を離れると人のざわめきやアナウンスの声が消え、白く静まりかえった別世界があらわれた。消毒液の匂い、濡れたようなリノリュウムの床のてかり。
ぼくの病室は長い廊下の突きあたりで、まだ明るい時間なのに、それぞれのベッドにはすでに夕食が運ばれていた。看護婦は一通り説明を終えると、廊下の大きなワゴンからぼくのトレイを持ってきて、塩分を極力ひかえた食事にしてある、薬だと思って食べるように、と言って出ていった。
ぼくはパジャマに着替えてベッドに座り、夕食を乗せた移動式のテーブルを胸元に引きよせた。ベッドの上で食事をするなんて、外国映画みたいでなかなか悪くない。母親はぼくの夕食を見て、「思ったより豪華じゃない」と言った。
ところが、それはとんでもないしろものだった。まずいよりももっとひどい。なんの味もしないのだ。ためしに母親にも食べてもらった。母親は口の中でくちゃくちゃさせたあと、「なに、これ」とのみこんだ。「でもお薬なんだから、しっかり食べなさい」
半分ほど食べたところで、ぼくは力つきた。残しても母親は文句を言わなかった。
母親が帰ったあと、ぼくは白い天井をながめて、やれやれ、と思った。いったいどうなってしまったのだろう。朝と夕方とで、なにもかもがまったく変わってしまった。どこかで異次元へ通じる扉をくぐってしまったみたいだ。いつ、どこでその扉をくぐったのか。
本当ならいまごろ、ぼくは家で合格祝いをしてもらっているはずだ。せめて今晩のごちそうだけでも食べておきたかった。
そして、ぼくは入院と休みとの決定的な違いに気づいた。もう好きなものが食べられないのだ。
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