1 となりのイーノ


 「なに書いているの」と、となりのベッドの女の子がぼくをのぞきこんで言った。

 「マンガ」

 「ふうん、絵がうまいんだ」

 それがイーノとの最初の会話だった。

 冬の終わり、もうすぐ小学校も卒業だというころ、ぼくは腎臓病で入院した。近くの停留所からバスで10分ほどの、小さな総合病院の三階、六人部屋。三つずつ並んだベッドの真ん中にぼく、となりの窓がわにいた女の子がイーノだった。ぼくが一二歳、イーノは一〇歳だった。

 前日の夕方に入院したばかりのぼくは、朝の回診が終わったあと、持ちこんだ荷物の中からマンガ道具一式の入った箱を取りだし、描きかけの原稿をベッドの横のテーブルに広げた。ペンとインクは箱に残し、ぼくはエンピツで宇宙探査機の下絵を描きはじめた。銀河の中心部へ向けてメッセージを送りだす大きなアンテナ、それと宇宙船本体とのバランスが難しく、なんども消したり描いたりした。

 ピンクの花がらのパジャマを着た色の白い女の子がそれを見ていた。少し熱っぽいようなふっくらと丸い顔に、クリクリよく動く大きな目をした子だった。

 窓から差しこむ午前のやわらかい光が、なにもかも白い病室の中をさらに白い輝きで満たし、ベッドの上にあぐらをかいて座っているその子の周囲をまぶしく照らしていた。

 「マンガ、好き?」

 と、ぼくは椅子を引いてその子のほうに体を向けた。

 「うん、好き。見せてくれる?」

 「いいよ。でもまだできていないんだ。あとでね」

 「ほかにはないの?」

 「家に置いてある」

 「ふうーん」

 その子は足首を両手でつかんだまま、つまらなそうにごろんとあおむけに転がった。こっちを向いた足の裏が、とても小さく、白かった。

 「何年生?」

 その足の、親指あたりに向かって声をかけた。

 その子は、「四年生」と大きな声を出してきちんと座りなおし、「中村いのり、一〇歳。よろしくお願いします」と、ぺこりと頭を下げた。つられてぼくもぎこちなく頭を下げ、「あっ、青山俊央。よろしく」とあいさつをした。その子は正座のまま、にこっと笑った。

 「そうか、いのりちゃんか」

 「ちがーう、イーノだも」

 「イーノ?」

 「いのりちゃんじゃないよ。イーノだよ」と、ぼくに念をおすように言う。

 「じゃあ、イーノちゃん」とぼくは言いなおした。

 「イーノでいーの」

 あれっ、とその子は横に倒れてクスクス笑った。それを見てぼくも笑った。すると、笑っていることがおかしくて、もっと笑う。おし殺そうとしてもれた息までがおかしくて、さらに笑う。やっと止まりそうになっても、相手の笑い声でまた笑ってしまう。そうやって、ぼくもその子もしばらく笑い続けた。

 イーノはいつも笑っていた。声をたてて笑ったり、ときには声も出ないほど腹をよじって笑ったが、いつもはたいてい一人で静かにニコニコ笑っていた。だまって窓の外を見ているときも、大人たちの難しい話を聞いているときも、その口もとは楽しそうな笑みを浮かべていた。眠っているときでさえほほえんでいるように見えた。それでも医者の回診のときだけは、しんみょうな顔をしてじっと目を見開いている。その表情の落差がイーノをとても幼く見せた。

 一〇歳という年齢の女の子が、実際のところどういうものであるのか、ぼくは知らない。だが、当時のぼくにわかっていたことは、イーノはみかけよりも、そしてたぶん大人たちが思っているよりも、子供ではないということだ。大人たちの前で幼く甘えてみせるのとはまるで違って、ぼくに対しては真剣になにかを訴え、求めた。はたしてぼくは、そのうちのいくらかでも受けとめることができただろうか。

 イーノの病気については、ぼくはほとんどなにも知らない。たぶんイーノ自身あまりよくわかっていなかったのではないか。あるとき、「ないしょだけどね」とぼくにこんな話をした。

 「わたし、ほんとうは宇宙人なんだ。知らなかったでしょ」

 「知ってたさ」

 「どうして?」

 「だって、ぼくもそうだもん」

 本当? と、イーノはぼくの顔をのぞきこんだ。

 「みんな知らんぷりしているけど、だれでも本当はいろんな星からやってきた宇宙人なんだ。ただ地球に来るとき記憶を消されたから、そう思っていない人が多いけど」

 「バーカ。そんなんじゃないって。だって、わたしの血って緑色しているんだよ」

 「うそ言うなよ。じゃあ、どこか切ってみるか」

 「でも、医者さんが言ってたよ。手術して悪いところ取っちゃえば治るってものじゃないんだって。普通の人と違うんだ。まいっちゃうよね」

 イーノはときどきうそをついた。たいていは自分で笑いだして、すぐうそがバレてしまう。だけど、たまにうそだか本当だかわからないようなものもあった。自分では本当だと信じていたのかもしれない。たとえそれがイーノの空想だとしても、そう信じているイーノにとっては、それは本当のことと同じなのだ。今なら、ぼくはそう思う。

 「このごろ、ちっちゃいときのことをよく思いだすんだ。野原で、いろんな色の花やバッタやコオロギと遊んでいたんだよ」

 「なにをして?」

 「お話をした。いろんな話。そうだ、風さんとも少しだけ話したよ」

 「うそつけ。どうしてそんなのと話ができるんだ。じゃあ、コオロギの言葉を喋ってみろよ」

 リー、ルー、キー、とヘンな音をだしたあと、イーノは悲しそうに言った。

 「忘れちゃった」

 「ほらみろ」

 だけど、本当だよ。と、イーノは言いはった。ちっちゃいころは本当に花や虫としゃべれたんだ。人間の言葉を覚えたかわりにその言葉を忘れちゃったみたい。きっと青山くんも昔はしゃべっていたと思うな。忘れているだけだよ。

 そう言われると、なんとなくそのような気がしてくるからふしぎだ。もしかしたら、小さな子供はみんな虫や花や風と話をしているのかもしれない。

 「しょうがないよね。なにかをもらったら、かわりになにかがなくなるんだ。とっかえっこだも」

 そのときのイーノは、なんかとても遠くにいるようで、もしかしたらほんものの宇宙人かもしれない、とぼくは思った。

 ぼくはイーノに似顔絵を描いてあげた。昆虫の触覚のような二本のつのを頭にはやした宇宙人の絵だ。

 「なに、これ。ぜんぜん似てない。でもかわいいから、わたし、この宇宙人、好き」

 ニコッと笑ったイーノの笑顔のかわいらしさだけはそっくりに描けていた。そんな宇宙人ならぼくも好きになれそうだ、とそのとき思った。

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