アイデンティティに関して
アイデンティティに関することをちょっと書いてみたいと思う。
といっても、ちょっと変わった、犬のアイデンティティの話である。
ウチで飼ってる柴犬キリは、人の話が分かる。
言葉も少しは分かるが、気持ちを込めて話してやると、大抵何が言いたいのかおよそのところが分かるようなふしがある。
少なくとも、丁寧に説得すると、大抵のことは納得してくれる。
たとえの話は長くなるので省略して本題に入ると、その柴犬キリが、1時期とても澄んだキレイな瞳で私を見つめ、じっと不思議そうな顔をすることがあった。
これは私だけでなく、もちろん1番丹精込めて世話をしている妻や、息子に対しても同様だったと思う。
これは何であろうか。
たとえイヌとはいえ、何も感じずに、ただの反射的な行動でそういうことをするものではない。
実は私はその瞳の奥に、あなたはだれ? どうしてぼくはここにいるの? という彼なりのアイデンティティの不思議を感じていたのだと推察している。
もちろん大抵の方は、そんなバカな、イヌがそんなことを考えるはずがない、と思われるかもしれないけど、私は少しも疑わず、そういう感覚を彼は抱いていたのだと信じている。
私は子供の頃、ふと、父や母を見て、どうしてこの人が僕のお父さんなのだろう、どうしてお母さんなのだろう、僕は一体どこからきたのだろう、と不思議に思った記憶がある。
その頃は、自分がそこにいるということの、いわゆる生物的なカラクリとでもいうのか、その必然性は知らなかった。でもそれにしてもである。どうしてそこにいるのが自分であって、どうして自分は隣のマサくんではなかったのだろう、という不思議にとらわれたのはよく覚えている。ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」という映画の中にも、『僕はどうして僕で、君でない?」という詩がでてくるが、監督もまた、子供の頃そういうアイデンティティの不思議を感じたことがあると言っている。
で、柴犬キリなのだが、彼にはそこまでの知性はないから、具体的にそういうハッキリとした疑問ではないかもしれないが、根源はそれと同一の、彼なりの不思議な感覚に襲われたのではないかと私は思うのだ。
もちろん彼はそんなに具体的な観念は持たなかったかもしれないし、自分がペットショップから、私たちに金で買われてこの家に来たという人間社会のカラクリを知ることは一生ない。
彼にはそこまでの知性はないから、彼のアイデンティティの疑問は永遠に謎のまま終わるわけだ。
しかし考えてみれば、「どうして僕が僕であって隣のマサくんではなかったのか」という疑問も、私の知性では永遠にその答えを知ることはない。
つまるところ、私とキリは、大した違いはないのかもしれない。
私の知性なんて、決して自虐ではなく、その程度のものなのだろう。
そう思うと、一層キリに親しみが湧くのだった。
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