「読書日記 アルベール・カミュ『異邦人』」 柊圭介さま
吉月吉日
アルベール・カミュ著『異邦人』を久しぶりに読む。この小説は大好きでもう何度も読んでいるが、なぜか飽きることがない。既視感があるのに毎回新鮮な気持ちで読める。そういう作品だ。
必要ないかも知れないけど一応あらすじを記すとこんな感じ。
舞台はフランス領時代のアルジェリア。そこに住む青年ムルソーが、老人ホームに預けた母の死を知るところから物語は始まる。その後は彼女ができたりして日常の生活を送っていたが、せっかく遊びに行った海辺で友人のいざこざに巻き込まれ、ひとりのアラブ人を撃ち殺してしまう。
(ここまでが第一部)
その後、彼は裁判にかけられる。反省や後悔の色を見せないのに加えて、母の葬式で泣かなかったことや私生活まで掘り返され、隣人や友人の証言まで不利に働く。さらに殺人の動機をあろうことか「太陽のせい」と口にしてしまったおかげで「怪物のごとき罪人」認定を受け、斬首刑を言い渡される。
執行日が近づくなか、訪問に来た神父の説教に激昂したムルソーは、最後に静かな幸福感に満たされ、ある種の悟りに達したところで話は終わる。
この小説、ものすごく簡単にまとめてしまえば、
「自分に正直に生きたら社会から抹殺されるよ」という話だ。
ムルソーは自分の感覚に正直に生きている。母の葬儀からアラブ人殺しまでの第一部は、アルジェリアの美しい風景描写、暑さや疲労などの本人の肉体感覚、そして恋人や隣人たちとの日常の出来事だけが淡々と綴られている。
そのなかで目につくのは、「どちらでもいい」とか「相手がそうして欲しそうだったから」という受け身な態度や考え方だ。本人の意思を見せる部分がなく、「断る理由がない」だけですべて受け入れる。自分の感情には無関心に見える。だから「嬉しい」とか「悲しい」とかの感情を表す形容詞が出てこない。
彼は自分に正直でありながら、受け身で自分の感情に無関心な態度を取ることで、人づきあいや世間との均衡を保っている人なのだ。ただ、この態度がのちのち自分に跳ね返ってくるのだけど。
彼は嘘をつかない。恋人のマリーに「私を愛している?」と訊かれて「愛していない」と答えるのは、そういう観念的なことが自分にとってリアルじゃないからだ。彼のリアルとは、夏の夕暮れとか、通りの喧騒とか、空の色とか、マリーが笑ったから欲情したとか、自分の五感で感じるものだけだ。
第一部の最後、アラブ人殺しの場面は、その感覚的な描写が俄然迫力を増す。一歩踏み出そうが引き返そうが逃れられないギラギラの太陽。頭の中で鳴り響く灼熱のシンバル。目の中に流れ落ちてくる汗。アラブ人が目の前に突きつけた、瞳を裂くようなナイフの光。すべてが彼にとって耐えがたいものでしかない。このすべてを終わらせたい衝動が一発目の銃声に込められているように感じる。そしてまるで自分の生きる世界にとどめを刺すようにさらに四発打ち込み、「不幸の扉を叩く」のだ。
こうして逮捕されたムルソーは、裁判を経て斬首刑を言い渡されるのだが、そこに至るまでの過程が、イライラするほどの不条理劇である。自分に忠実であることと社会との折り合いってなんなんだろう?
例えばみんながマスクをつけてるときに、ひとりだけマスクを外してる人がいたら、社会性がないとか非常識だとか言われる。そしてその人が仮に殺人をしたら、「やっぱりあの人は悪い人だったね」みたいなざっくりとした判断を下される。その人が暑くて苦しくて息ができないからマスクを外したのだとしても、周りは外側の行動だけで判断する。その人が言い訳をしないなら、さらに状況は悪くなり、人間性にまで話は発展する。
マスクとは関係ないかも知れないけど、第二部で繰り広げられる裁判劇は、結局そういうことじゃないかと思う。
裁判では、母を老人ホームに入れたことから始まって、殺人事件とは直接関係ないことをネチネチ掘り返され、ムルソーの人間性が否定されていく。第一部で淡々と描かれていた一見どうでも良さそうな出来事のひとつひとつが伏線になっている。そしてうわべだけしか語られないその流れに、マリーのセリフじゃないが「本当はそうじゃないのに」とやるせなくなる。第一部で、飼い犬を失った隣人の慟哭を耳にして、「母さんのことを思い出した」り、笑っているマリーを見て「おれはきっと彼女と結婚するんだろうなと思った」り、アルジェリアの夕暮れを愛情を持って眺めたり。物語の端々に彼の慎ましい感情が見え隠れしているのを読者は知っているからだ。
でもムルソーの瑞々しい感性や繊細さや優しさは、証言台に立つ友人たちしか知らない。そして彼らの証言はことごとく役に立たない。この裁判では外側から見える氷山の一角でしか判断されない。
だいたい、殺人そのものよりも、「社会的道徳」の方でムルソーは裁かれている。
「母の葬儀では泣くものである」「喪中に女の子とつきあうなんて不謹慎」「神を信じないなんてありえない」「みんなつけてるんだからマスクをつけるのは当然」その他もろもろ、誰がそんなルールを決めたのか。人間のつくった社会である。ムルソーは殺人罪ではなく、社会的ルールに従わなかったせいで処刑されるのだ。
当人のムルソーはというと、言い逃れをしようとか、物事に理由をつけようという気がない。どうしてアラブ人を撃ったのか、分からないから説明できない。無理やり説明しようとすると、「太陽のせい」という言葉しか出てこない。
この点ムルソーは終始一貫していてブレない。だけど、こういう彼の態度がさらに状況を悪くするのは当然である。自分を蚊帳の外に進んでいく裁判を淡々と見つめ、他人が勝手に貼った反社会人のレッテルを甘んじて受けるのだ。
物語の最後で彼が達する領域は、社会に縛られない個人として人生を全うする幸福感なのだと思う。でも、皮肉にもその悟りを与えたのは、ムルソーが拒絶していた神父による訪問だ。
神へ帰依することを促す神父に対して、はじめてムルソーは感情を爆発させる。社会の規範だの神の存在だのにすがって「死んだように生きてる」人間よりは「おれの方が正しい。いつだって正しい」と怒鳴り散らす。今までの冷めた語り口は、ここで一気に「喜びと怒りの入り混じった」怒涛へと変わるためにあったんじゃないかと思う。やっと言えたね、って褒めてあげたくなるぐらい。憑きものが落ちるようなカタルシスがある。
最後の「世の中の優しい無関心に心を開いた」の優しいは逆説的だ。「どうせお前らはおれのことなんかどうでもいいんだから、処刑の時ぐらい憎悪の怒声を浴びせてくれよ。そしたら淋しくないからさ」
最後までシニカルな男、ムルソー。自分なら絶対こんな境地にはなれない。
タイトルの L'Étranger は外国人の意味もあるが、見知らぬ人、迎合しない人、ひいては反社会的な人ということに繋がる。ムルソーは植民地アルジェリアに住むフランス人、そして社会という国から逸脱したよそ者、両方の意味で異邦人だ。
僕は誰の心にも少なからずムルソーがいると思う。みんな自分の中のムルソーを殺しながら生きている。そうしないと世間で生き延びることができないから。そうして自分に小さな嘘をつきながら生き、嘘をつけない人を見ると「反社会人(エトランジェ)」だと裁き、世間から抹殺するのである。
愉快な小説とは絶対に言えないから軽くお勧めはできないけれど、中学生や高校生の夏の一冊だけに留めるのはもったいない。そこそこの歳になった大人が改めて読んで、ああ……とぐっさり刺される、そんな読み方もいいのじゃないかな、と思う。
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