20世紀映画の個人的風景
今回は、ちょっと個人的な、凝った映画の話をしよう。
今でも懐かしく思い出す、映画の中の風景というものがたくさんある。
たとえば、セルジュ・ブールギニョン監督の「シベールの日曜日」。孤児となった少女と、記憶喪失の男の交流を描いた1962年のフランス映画で、ご存知の方も多いと思うが、この作品の中の水の波紋や深い霧を私は生涯忘れることはないと思う。
音楽は「ドクトルジバゴ」や「アラビアのロレンス」のモーリス・ジャール、撮影は「太陽がいっぱい」などのアンリ・ドカエだ。
1959年のアラン・レネ監督による日仏合作映画「Hiroshima mon amour」(邦題は「二十四時間の情事」だが、原題の「ヒロシマわが愛」という呼び方をする人が多い)の中のヒロシマやフランスのヌベールという町の風景はさらに強烈に私の内に残っている。
ヒロシマでの、フランスの女優と日本人男性の恋を描いたもので、原作はマルグリット・デュラス。フランス人女優はエマニュエル・リバが、日本人男性は岡田英次が演じた。
作品の中で、ふたりの心が触れ合ううちに、次第にフランス人女性の過去の出来事(恋愛)が明らかになっていく。その過程で、フランス、イヨンヌ県のヌベールという町の風景が何度も登場するのだが、その美しさは私がそれまでに観た映画の中でも秀逸だ。
また、1999年の中国映画、チャン・イーモウ監督の「初恋のきた道」の中国東北部の美しい風景も私には忘れられないものとなっている。
ああ、自分にもこんなことがあったな、と思うような不思議な懐かしい情景が、中国の田舎の風景の中に描かれている。その美しさもまさに卓越したものだ。
ところが、ここでひとつ。
学生の頃、ある友人が「シベールの日曜日」の舞台となった池のほとりを訪れ、そのあまりのつまらなさにがっかりしたと言っていたのを思い出す。
すると、先に書いた「ヒロシマわが愛」のヌベールはどうなのだろうと思う。アラン・レネ監督の手によって、映像の中で美しい町に変貌しただけなのか、それともやはり実際も美しい町なのか?
「初恋のきた道」の中の風景は、中国、遼寧省、大連市に1年ほど住んだ私の経験から、チャン・イーモウ監督が作り出した映像の魔術なのではないかという気がしてならない。
というのも、1987年のフランス・西ドイツ合作、ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」という作品が、言葉と、映像の力と、音楽で、ありふれた都会をたぐいまれなほど詩情豊かに描くことが可能なことを証明してみせたと私は思っているから。
このように、風景というものは見て、感じて、表現する人によって、極めて美しくもなれば、つまらないものにもなるだろう。
ここに書いたものはごく1部だが、もうひとつ、ごくありきたりの風景を写しながらショッキングな、忘れられないラストシーンとなった作品をひとつ挙げたい。
1967年のイギリス、イタリア合作、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」がそれだ。
人気カメラマンが遭遇する奇妙な出来事を描いたもので、ラストに、数人のヒッピーたちが彼のそばにあったテニスコートにやって来て、テニスを始める。しかしそれはボールもラケットも使わない、テニスの動きだけを真似た遊びだ。ところがヒッピーたちのボールは、どうやらテニスコートを飛び出し、主人公の目の前に転がってきたらしい。もちろん、それは目に見えないボールである。ヒッピーたちはそのボールを拾うよう主人公に促す。さて主人公は……。
これ以上言うまい。なぜならこれは、アントニオーニ監督が、せっかく一本の作品のラストシーンとして創り出した、映像芸術なのだから。
ご覧になった方も多いとは思うけど、私のつまらぬ語りによってネタバレさせるほど、軽く、安っぽいものではないのだから。
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