第二章 嵐の騎士

1 瘴土

 曇天の空の下、森に風が吹き荒んでいた。

 

 クーヴィッツ共和国、ジュハン森林。旧帝国時代より良質の木材を産出し、国内のみならず国外にも供給するこの森は、しかし不気味なほどに静かだった。初夏なのに動く獣の姿もなく、鳥や虫の鳴き声すら聞こえない。


 森の中、長年踏みしめられた道をゆくのは一人の旅人である。黒マント、黒革の胸甲、黒篭手という黒ずくめの装束もさることながら、背負った剣の柄はよく使い込まれ、その歩みは無人の森でも僅かな隙も見せぬ。ただならぬ武芸者であることは容易に知れた。


 風になびく鉄色の髪の下、そこから覗く顔は若く端正でもある。だがそれ以上に精悍という印象が強いのは、紫水晶アメジストの瞳に宿った苛烈な光のために違いない。隙のない身のこなしも、何物をも寄せ付けぬ空気も、丹念に鋭利に鍛え上げられた一振りの剣といった印象を見る者に与えるのを手伝っていた。

 

 青年の名はエフェス・ドレイクという。

 

 エフェスは脚を止め、一本の真っすぐ伸びた樹に正対した。樹皮からもわかるように、エフェスの頭上遥か高くに繁る葉も青々とした、若い針葉樹である。

 

「…………」

 

 拳を突き出すと、さしたる抵抗もなく黒篭手が埋まった。拳を抜くと、乾いた樹幹がパラパラと指の間からこぼれ落ちた。

 

「やはり、死にかけている……」


 枯死しかけた樹は一本や二本では済まない。今のジュハン森林は獣も鳥も虫も見ず、本来の植生も朽ちかけていた。

 

 魔術師の言う霊脈レイ・ライン、その性質を強引に変化させたことによって起きる瘴土しょうど現象である。

 

 これを放置すれば、やがては近隣の土地全てが腐臭を放つ不毛の地と化す。それは森林が何千年、ともすれば何万年とかけて育んだ豊穣の腐敗とは自ずから性質は異なる。草木も育つことはなく、獣たちは病み、あるいはそうなる前に去ってゆく。毒を孕んだ腐敗である。やがては生まれつきの毒性を持った地衣類がはびこるのみとなるのだ。


 エフェスはしばし歩き、やがてそれを見つけた。

 

 松枝の誇り高さもなく、醜く捻じくれた樹木の如きもの。近づいて見ると違いは明らかだった。その表面は黒い岩のように見えてその実、生物の臓器のように絶えず不気味に脈打ち、蠕動ぜんどうしている。この物体は、歪み捻じくれながらも高さにして三丈(約九メートル)以上に及ぶほどにそびえ立っていた。

 

 〈魔殖樹ジェネレーター〉と呼ばれていた。霊脈レイ・ラインを狂わせて土地を腐敗させ、余剰の魔力マナを抽出する役目を持った疑似生物である。


 大地を狂わせ腐らせる元――だが、まだ森林は完全には腐り果てていない。全てをり倒せば、時間はかかるが森林の生態系は元に戻るはずだ。

 

 黒篭手の指が背中の剣の柄を握り、肩から下げたベルトから外して両手で前に構えた。鞘ごとである。

 

 その剣は鍔が鉄鎖で封じられ、黒鉄の鞘に収まったままだった。鞘はエフェスの腕が細身に思えるほどに無骨で、ひびにも似た数多の幾何学的ラインが左右対称に刻まれていた。

 

 それを腰だめに構えると、エフェスの腕に恐るべき筋肉が盛り上がった。そのまま横薙ぎに揮い、魔殖樹に叩きつけた。大型鉄槌に等しい重さであり、しかもエッジは剣のようには鋭利ではない。凄まじい破砕音と共に岩の如き表面が大きく陥没し、亀裂が走った。

 それでも蠕動はやまない。亀裂から垂れ流れる黒ずんだ樹液は魔力マナを含み、容赦なく魔殖樹自体を灼いて白い煙を上げていた。

 

 まだ十分ではない。もう一度、エフェスは鞘ごめの剣を揮った。今度こそ魔殖樹は二つに折れ、重々しく倒れた。樹皮と繊維――と呼ぶべきなのか疑問ではあるが――でかろうじて繋がった状態だ。ナイフを取り出し、これを切断すれば終わりである。

 

「いやがった!」

「てめえ、何してやがるんだ!?」

 

 野卑そのものといった声が聞こえ、エフェスは左手に視線をやった。

 

 十名ほどの兵である。装備の質は粗悪かつバラバラ、隊列も一目でなっていないことがわかり、中原国家の兵として最低限の教育も受けていないに違いない。しかしエフェスが注目していたのは、掲げられた軍旗シグナムだった。

 

「ガウデリスか」

 

 確認するまでもなかった。黒字の軍旗に刺繍された天に咆える銀の虎は、ガウデリス覇国の氏神。そして覇国こそ各地に魔殖樹を地に殖え、魔力マナを収奪し続ける者たちである。

 恐らく森には侵入者に反応する仕掛けがしてあり、兵はそれに呼ばれてここへやってきたのだろう。

 

 エフェスの眼に、静かな怒りの焔が燃えた。

 

「ああン? こいつ、俺たちを戦闘民族ガウデリスと知ってンのかァ?」

「あッ! こいつ……魔殖樹を倒してやがるぞ!」

「マジかよ……冗談だろ!?」

「このクソ魔殖樹に傷一つでもあってもよ、クソ上官からクソほど叱られるんだ!」


 険悪と倦怠の表情を浮かべ、兵が二人近寄ってきた。後方では二人、弩弓兵がボウガンに矢をつがえているのが見えた。

 

「チッ、バラして魔力マナの足しにしちまうか」

「つか、それ以外やることねえだろ……」


 エフェスの左手が翻り、握っていた木の枝を投じた。それは先鋒の二人の横を抜け、後方の弩弓兵たちの右眼にそれぞれ突き刺さった。汚い悲鳴が上がり、驚いた先鋒が一瞬だけ後方を向く。エフェスは間合を詰め、鉄鞘の剣を薙ぎ払った。二人の雑兵の身体が宙に舞い、落ちて来たときはもう人ではないような形をしていた。

 

 呆然としていた兵へ、鉄鞘を振り下ろした。頭部が兜ごと潰れた。斬りかかってきた相手を一振りで吹き飛ばす。兵は樹にぶつかって血反吐を吐いた。

 

「クソッ、なんて野郎だ! 装甲しろ、装甲だッ! 犬どもも呼べッ!」

 

 誰かが喚いた。叩きつけるような抱拳――血反吐を吐いた兵も虚ろな表情でそれにならう。エフェスは積極的にそれを止めようとはしなかった。

 

 兵たちの姿が黒紫に彩られた超自然の焔、幻魔焔に包まれる。既に距離を置いていたエフェスへ、焔の中から影が飛び出し、襲いかかった。その鋭利な手爪の一撃を、斜に構えた鉄鞘の剣が受けた。

 

 影は〈ゴベリヌス〉。覇国が誇る埒外らちがい魔性の軍勢、幻魔兵の一つである。頭頂から足先まで甲冑に身を包んだその姿は、亜人種小鬼ゴブリンに酷似している。ゴベリヌスはゴブリンを元にして、人間へ魔術的調整チューンを施して創り上げた。それは人種を問わない。ガウデリス本国民のみならず、占領地の民も対象である。


 幻魔兵になった者は、身命を賭して覇国に奉じる護国の戦鬼――あるいは奴隷と化すのだ。


「あア? 何でお前――」


 ゴベリヌスが訝しんだ。何故自分の攻撃を受けられるのか。幻魔兵でもないエフェスが。そう言いたかったのだろう。幻魔兵の攻撃は風のように速く、刃のように鋭い。並の兵や騎士では到底太刀打ち出来るものではない。

 

 しかし、エフェスは並の剣士ではない。その場で身を旋転させるや、勢いをつけて鉄鞘をゴベリヌスに叩きつけた。

 

「ぬおッ!?」


 ゴベリヌスは土に足跡を刻んで後退。しかし幻魔焔の消えた跡から装甲を遂げた他のゴベリヌスが次々と奇声を上げて襲いかかってくる。

 

 いずれも最短距離を詰めることが目的の直線的動作。対処は容易い。先鋒の個体の頭部を鉄鞘が捉え、そのまま頸骨くびぼねからもぎ取り、明後日の方向へ吹っ飛ばした。鉄鞘が翻り、もう一体の頭を真っ向から叩き潰す。


「こいつ、何なんだァ!?」

 

 他の個体の脚が止まった。幻魔兵の調整チューンは瞬く間に僚友たちを屠ったエフェスの豪剣に怯んだようである。エフェスはその半壊した先鋒を抜け、後方へ走った。ゴベリヌスも反応出来ぬ、そんな速度だった。

 

 間合に踏み入れたエフェスに対して、咄嗟に弩弓兵ゴベリヌスが出来たのはボウガンを盾にすることである。襲いかかる大質量に晒され、ボウガンは砕け散ることでその役目を見事に果たしたが、状況は別に好転しなかった。斜めに掬い上げるような一撃が左脇下へ入り、胸甲や鎖骨ごと心臓を破壊した。残りの弩弓兵ゴブリンは逃げようとするも、鉄鞘の鋭く尖ったこじりによって胸を貫かれた。


 エフェスは死体を足蹴にして、半ばまで血塗れになった鉄鞘を抜いた。

 

「どうした? お前らの上官とやらまだか?」


 敵に視線を向けて言い放つ。

 

 幻魔兵の生命力は強い。骨折や重度の切創きりきず程度ならば、その場で回復して何度でも立ち上がってくる。仕留めるには特に胴体や頭部へ致命的損壊を加える他ない。可能ならば当然一撃が望ましい。

 

 増援が来ても全て殺す自信はある。一撃必殺。文字通りに血反吐を吐きながらの修練が、それを可能にしていた。 


 下生えを踏む音が聞こえた。繁みが動き、そこから転がり出たものがあった。

 

 十歳ばかりの少女である。

 

 エフェスとゴベリヌスの中間距離に、子供が出現した。

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