天龍剣黙示録 ~獣神咆ゆるとき全てが始まる~

斉藤七陣

第一部 龍虎争覇編

第一章 獣神の騎士

1 斬鉄の剣

 眼の前で、首が落ちた。

 

 アズレア公国の大公モンドは年若い君主である。彼の三十六歳の誕生日たる今日、内々だけの慎ましやかな祝宴が行われていた。昼食も過ぎて宴もたけなわなる頃、女騎士マーベルは至近距離でその凶行を目撃した。犯行を行なったのは一人の男である。


 マエリデン侯爵は大の武芸好きで、邸宅には何名かの武芸者を食客として養っている。この宴の際にも何人かの食客を伴っていた。その宴にみすぼらしい黒マントの男がいても、侯爵の共連れの者と誰も疑わなかった。侯爵とマーベルが弓矢の芸で言葉を交わしていると、男が侯爵の正面に来て、得物を揮った。血が飛沫き、侯爵の首が落ちた。


 衛兵も、その武芸者たちも、誰一人として男の凶行を止められなかった。

 マーベルは驚くとか、恐怖するより、まず呆気にとられた。その手際のあまりに鮮やかさの故に。武芸者たちもそうだったのだろうと思う。


 宴の場は大混乱に陥った。思いがけぬ流血に貴人たちが悲鳴を上げて卒倒し、あるいは逃げ惑う。


 速やかに兵がやってきて、男を囲んで槍を突きつけた。男は得物を投げ捨て、兵に連行されて行った。

 

 マーベルは血に濡れた得物を見た。絨毯の上に転がったそれは、何の変哲もない果物ナイフだったのだ。彼女には、そのナイフの軌跡すら見えなかった。刃渡り三寸ほどのナイフの一太刀で、あれほど鮮やかに人間の首を落とせるものなのか。

 

 だからこうして、牢まで来ていた。アズレア公城の地下にある独房の一つである。

 

「何故、マエリデン侯爵を殺したの?」


 牢獄の隅に座っていた男が、マーベルの方を向いた。

 

「あんたは――マエリデンと話していたな」

「武芸の話をね。わたしはマーベル・ホリゾント。騎士叙勲は受けているわ」


 マーベルは蜂蜜色の髪を掻き上げながら言った。柘榴石ガーネットの瞳に彩られた少女の面影を残す勝ち気な美貌が、鉄格子越しの男を見据える。祝宴から着替えておらず、白を基調とした式典用軍服のままだ。腰には細身の剣レイピアを帯びている。ただし剣はさほど得意ではないという自覚はあった。


 自分から先に名乗ったのは相手が名乗ることを期待してのことだったが、男は全く別のことを口にした。


「奴は国を売っていた」


 揺れる光源の向こう、マーベルは彼の顔をまじまじと見つめた。鉄色の髪の下の顔は意外に若く端正である。ただ、紫水晶アメジストの眼には並々ならぬ力が宿っている。それでいて掴みどころがない透徹とした眼。

 尋常ならざる修行を超えた武芸者の眼だ。あるいは、幾度も死線を越えた戦士の眼。


「……どういうこと?」

「ガウデリス覇国に、このアズレア公国を売っていたのさ。まさかあんた、知らないで談笑していたのか?」

「覇国に、ですって?」


 まさに寝耳に水だった。遥か北方の白虎平原から龍脊りゅうせき山脈を越えてやってきた蛮族、ガウデリス覇国の名を聞くなど、思いも依らないことだった。マーベルは困惑に眉根を寄せた。


「でも、まさか。マエリデン家はアズレア興隆からの譜代の家系なのよ? 裏切る理由なんてないわ」

「理由などどうでもいいだろう。大事なのは奴が裏切っていたという事実だけだ」


 男の反応はにべにもなかった。理由すらどうでもいいと言い切るその態度に少しの苛立ちを覚えながら、マーベルは訊いた。


「――それで、あなたの目的は?」

「虎狩りだ」


 男は即答した。

 虎は覇国の氏神うじがみである。天に吠える銀虎の紋章を、今や中原で知らぬ者はいないだろう。ナイデンとの国境で、同盟国クーヴィッツはガウデリスの軍勢と交戦中である。さしもの軍国の精兵も、剽悍ひょうかんな覇国の兵に苦戦を強いられていると聞く。

 

 ただマーベルが知っているのはそれだけだ。いずれクーヴィッツが盛り返し、蛮族どもを北方の僻地へきちへ叩き返すだろう、というのが主流の見方である。

 中原――バルエシオ大河流域を意味する語――に棲まう大半の人々は、その程度の知識や見識しか持ち合わせていない。


「それにしても覇国が間者を……? そんなこと、聞いたことがないわ」

「どうも中原の人間は、北方の人間をただの蛮族バルバロイだと侮りたがる傾向があるな。だがそれはあんたらの事情であって、俺の知ったことじゃない」


 そこで男は語を区切り、静かに、それでいて強い語気で言い捨てた。


「今の奴らは中原の敵であり、それ以前に俺の敵だ。呪われた虎は、一匹残らず狩り尽くす」


 男の視線が強さを増し、マーベルを射抜くようだった。左手の指先が腰の剣に触れたが、丸腰の男に勝てる気が全くしなかった。内心怖じ気ている自分を叱咤し、辛抱強く話を続けた。


「……それでその、虎狩りのために、あなたは何をしたい訳なの?」

「俺の邪魔をするな。お前に言いたいのはそれだけだ。わかったらさっさとね」


 噛み合っていない。マーベルは溜息を吐きたくなるのを我慢した。


「命令形ばっかりね。あなた、北方人? だから中原公用語が不自由なのかしら?」

「生まれは北だが、中原にいて十年以上だから不自由はない。……命令形ばかりで悪かったな」


 皮肉に対する謝罪だとマーベルは気づいた。最後の言葉には棘がなかったからだ。意外に素直なのかも知れない。


 疑問はいくらでもあった。衛兵が少なすぎる。あろうことか手枷すら着けていない。今思えば尋問も短かった。覇国の間者云々を別として――国家要人暗殺の堂々たる現行犯にしては、扱いがどうにも軽すぎる。

 そう言えば名前をまだ聞いていなかった、とマーベルは思った。


「……しかし、来ないな」

「何が?」


 男は応えず、おもむろに立ち上がった。背が高い。六尺(約百八十センチメートル)をいくらか超えていた。四肢の筋肉は屈強で、しかも引き締まっている。鉄格子に近づいてきた。マーベルは後退りしそうになったが、こらえた。


「借りるぞ」


 マーベルは腰の軽さを自覚した。鞘はそのままに、男の手の中に剣があった。盗られた――彼女が何かを言う前に、剣が揮われた。鉄格子を構成する数本の棒がまとめて上下の二箇所を切断され、音を立てて落ちた。そこから男が抜け出た。


 マーベルには、それを呆然として見つめるしかない。男が言った。


「何だ、鉄も斬れないのか?」

「……普通は斬れないわよ!」


 マーベルの剣は決して悪いものではない。金銀をあしらった瀟洒な拵えもさることながら、刀身自体もたくみの手からなるレイピアである。先王からの授かり物なのだ。ただし鉄を斬るようにはどう考えても出来ていない造りである。刀身が細い上、斬るより突くことに重きが置かれているからだ。

 

 男が歩き出した。立派な脱獄、否、破獄である。しかし男の態度に一切悪びれる気配はない。

 

「ど、どこへ行くの!? 待ちなさい!」


 止まる訳がないのを承知でマーベルは大声を上げ、追った。男の歩みは全く常人と変わらないように見えて、マーベルが走ってやっと追いつけた。牢獄の階段の半ばである。男は後ろを見ずに言った。

 

「ついてくるのは自由だが、邪魔はするなよ」

「あなたが妙な真似をしたら話は別よ」


 マーベルは毅然と言い返した。騎士たる者は、例え想像を絶する達人を前にしても、自分が無手だとしても、決して臆した態度を表に出してはならないのだ。

 

「そう言えば、あなたの名前は?」

「どうでもいいだろう」

「どうでもよくないわ。わたしは名乗ったのよ」

「……エフェス・ドレイク。エフェスでいい」


 如何にもぶっきらぼうに応えたその名前には、聞き覚えがあった。古い家の名前だ。

 

「ドレイク――ひょっとして、ドレイク辺境伯? 龍脊山脈を拠点とする騎士の家系、よね?」

「ただのエフェスでいい。その栄誉は祖先のものだ」


 階段に二人の足音が響く。足音は渇いている。


「今の俺には、ドレイクの名は重い」

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