人類は終わるけど

夕野草路

氷菓の無い夏

第1話

「自習」

 登校すると、黒板に書かれていた。

「あ、おはよう。ハルツグ」

 一足先に教室に来たリコが言う。彼女は「暑いよー」とうめきながら、うちわでスカートの中に風を送り込む。目のやり場に困る。

「これ、どういうことだろうね?」

 黒板を見ながらリコは問う。

「忘れてんだろ。終業式だってこと」

「流石にそれは無いよー」

「俺も、そう思いたいけどさ……」

 窓の外を見る。遠く、海が見えた。東京湾。水面からは黒い物体がポツポツと突き出ている。島ではない。かつての摩天楼の残骸だ。六本木の辺りか。その真ん中より上の部分が、こうして海面から頭を出しているのだ。

 人類は、数千年かけて積み上げて来た知識や技術を、忘れている真っ最中だった。終業式くらい忘れたって不思議ではない。

 その時、教室の扉が勢い良く開く。三人目にして最後の級友、ヨシツネだ。

「ラッキー! 自習じゃん!」

 彼は教室に足を踏み入れるなり、言った。

「いや。自習じゃねえよ」

「は? 自習って書いてあんだろ? 黒板によお!」

 ここにも一人、終業式を忘れている奴がいた。最近の人類は、大体こんな感じだ。彼を見ていると、文明が忘れ去られていくのも、仕方ないと思えてしまう。

「今日、終業式だよ」

 リコが言った。

「あ! そうじゃん! 先生、忘れてんのかよ。バカだなー」

「自分だって忘れてたじゃん」

「俺はもう思い出した」

「どっちもどっちだよねえ」

「どーでも良いけどよお。この後、どうすんだよ?」

「どうしよっか?」

「……とりあえず、通知書は貰わないと」

 俺が言った。

「帰るべ」

 と、ヨシツネ。

「……俺の話聞いてた?」

「聞いてたよ。それで、面倒くせえなー、って思った」

「とんでもねえな……」

「良いじゃん。もう夏休みって事で。帰ろうぜ」

 ヨシツネはおもむろに黒板の「自習」という文字を消した。そして、白墨を引っ掴むと、デカデカと書き殴る。

「夏休み!!」




 ややフライング気味に夏休みが始まってしまった。しかし、夏休みが始まった以上、もう高校に用は無い。在校時間三十分。俺たちは校舎を出た。

「リコ。自転車は?」

 駐輪場で訊いた。

「うん。今日は、お父さんに送って貰った」

「親父さん、帰ってきてるんだ」

「そうなんだよね。……帰りは、どっちに乗って帰ろうかなあ」

 リコは、俺とヨシツネを交互に見た。

「あ? 何で乗って帰る前提で話が進んでんの?」

 ヨシツネが言った。

「え!? 乗せたくないの? 私のこと?」

「当たり前だろ! 逆に、何で俺達が乗せたがってると思ったんだよ?」

「え? だって、可愛いじゃん。ボク」

「ハルツグ。帰ろうぜ」

「そうだな」

「待って待って待って」

 リコが、俺たちの自転車の荷台を掴んだ。

「離せよ」

 ヨシツネが言った。

「そこのお兄さんたち。あれだよ? 可愛いボクを荷台に乗せて、くっつきたくないのかい?」

「くっつきたくない」

「別に」

 リコが驚いていた。本気で驚いているみたいで、その事に俺は驚いた。

「きょ、今日は特別に、少しギュってしても良いけど」

「嫌だよ」

「暑い」

「……胸とかも、少し当たっちゃったり、しないかも、しれなかったり?」

 リコはチラチラとこちらを伺う。

「歩いて帰れよ。バカ」

 ヨシツネが言った。

「怒ったよ! もう怒っちゃったからね!」

 リコがヨシツネを自転車から引きずり落としにかかる。

「おい! 離れろよブス!」

「ブスって言った! ブスって言ったあ!」

 暑苦しい。

「……分かったよ。乗ってけ」

 俺が言った。

「え? 良いの?」

 瞬間、リコは駄々をこねるのを止めた。

 俺達は自転車を漕ぐ。

 どこまでも青い夏の空。その掠れた大気を突き抜けて、太陽光は容赦無く降り注ぐ。ひび割れだらけのアスファルトからは、大量の雑草が這い出していた。光合成で忙しいらしい。

 真っ直ぐ伸びた路の先は、陽炎に揺れる。

 夏だ。

「あ。走ると涼しいね」

 そう感じられるのは、荷台に座ったリコだけ。

 ヨシツネの舌打ち。

「お前が甘やかすからこんな風に育ったんだぞ……」

軋むペダルを漕ぎながら、彼はかったるそうに言った。

「大丈夫、大丈夫。私、褒められて伸びるタイプだから、ハルちゃんの育て方で合ってるよ」

 荷台のリコが言う。

「育て方、合ってるってよ」

「合ってねえよ、バーカ!」

「何だあいつ……」

「何だろうねぇ?」

「それよりさ。リコ。近いよ」

「あ、うん。今日はいつもよりギュッとするって」

 そう言えば、そんな事を言っていたような気がする。変なところで律儀だ。

「いや。別に良いよ。暑いし」

「魅力ないんですかねー? ボク」

「…………」

 やがて、別れ道に差し掛かる。俺たちの家は右。しかし、ヨシツネは当たり前のように直進した。

「みなみ屋、行くのか?」

「当たり前だろ!」

 そう言いながら、ヨシツネは立ち上がってペダルを漕ぐ。

「おい! 待てよ! こっちは二人乗りだぞ!」

 ヨシツネの背中は、すぐに見えなくなった。

 どれだけ飛ばしたのか。俺がようやく彼に追いついたのは、目的地に着いてからだった。そこは、みなみ屋。海沿いの斜面に店舗を構える、喫茶店兼食堂だ。入り口の前で、ヨシツネは絶望した表情で空を仰いでいた。

「神は死んだ」

 ヨシツネは言う。

「お前さん、最近そのフレーズ好きだよな」

 この前の授業でニーチェをやった。以来、ヨシツネは事あるごとに「神は死んだ」と繰り返していた。直訳すると「ヤバイ」。

「何が有ったの?」

 リコが訊いた。

「神は死んだ」

 ヨシツネは答える。

「うん。それはもう良いから」

 ふと、俺は扉の前の張り紙に気づく。

『冷蔵庫故障中。一部メニュー販売中止』

「「神は死んだ」」

 俺とリコが言った。

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